投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月18日(木)12時58分36秒     通報
斉藤: 日蓮大聖人は、御義口伝で「一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う」(御書 p714)と、秘妙方便の意義を明かされています。

名誉会長: そう。自分自身が仏なのだと自覚すれば、秘妙方便が分かったことになる。
大聖人は「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずソ(鹿の字2つの上に鹿の字が乗る)法なり」(御書 p383)と仰せです。
いずれにしても、秘妙方便の「妙」とは、人間生命それ自体の「不可思議」なのです。すなわち、九界はすべて仏界の当体である。九界即仏界です。しかし悟ってみれば、仏界といっても凡夫の九界を離れては顕れない。九界に即してのみ顕れる。仏界即九界です。
目的である仏界を「真実」、そこに至っていない九界を「方便」とすれば、方便即真実(九界即仏界)であり、真実即方便(仏界即九界)なのです。これが秘妙方便です。
例えば、御本尊を信受したあとの九界の苦悩は、苦悩のための苦悩ではない。すべて、より信心を奮い起こして仏界を強めるための悩みであるし、それを乗り越えて仏界(真実)を証明するための“秘妙方便としての悩み”となる。悩みは、もっと成長しなさいと呼びかける“メガホン”なのです。

遠藤: 大聖人は「妙法の五字は九識・方便は八識なり九識は悟なり八識已下は迷なり、妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり森羅三千の諸法此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり」(御書 p794))と仰せですね。

名誉会長: そう。森羅万象 —- 人生で言えば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、すべて妙法の表れであるし、妙法を証明する方便なのです。戸田先生は「罰も功徳も方便です」と言われた。
例えば、一人の未入信の人がいる。何らかの悩みがある。悩んでいる姿は地獄界でしょう。その悩みがきっかけで信仰した。そうなれば、地獄界即仏界であり、その悩みは仏界に至るための法用・能通方便だったといえる。どちらかといえば能通方便だろうか。
しかし、信心してからも悩みはある。行き詰まりもある。ただ今度は、何が起こっても、全部、信心を証明するための悩みである。秘妙方便である。
いわんや広宣流布のための悩みであれば、菩薩界所具の地獄界、仏界所具の地獄界でしょう。こんな尊い悩みはない。悩みの山に挑戦すればするほど、乗り越えれば乗り越えるほど、仏界は強まっていく。その意味で、信心が強ければ、マイナスは即プラスであり、罰も即利益なのです。人生のうえに起こる一切が功徳なのです。
今、どんな姿をしていても、一切が「成仏イコール人間革命」という今世のドラマにとって、必要不可欠の一場面一場面である。“真実”(仏界)を表している“方便”(九界)なのです。これが秘妙方便です。
大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」( 御書 p1143)と仰せです。苦楽は九界であり方便。妙法を唱えるのは仏界であり、仏の真実の智慧の世界です。
苦も楽も、信心という大きな高い境涯から悠々と見おろしていく。そして妙法の喜びを楽しく味わっていく —- それが「妙法蓮華経方便品」を身読したことになるのです。

須田: よく分かりました。毎日、「妙法蓮華経方便品第二」と読誦していますが、こんなにも深い意味を感じて読んではいませんでした。

斉藤: 今、語っていただいた「方便」観は、生命の永遠観からも論じられると思います。
法華経の五百弟子受記品(第八章)は「衆に三毒有りと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す」(法華経 p361)とあります。
たとえ、三毒強盛の凡夫の姿に生まれても、また邪見に迷った姿に生まれても、妙法に目覚めてみれば、それは、同じように三毒強盛で、邪見に迷った衆生を救うための方便であると。

名誉会長: その通りだ。久遠の妙法蓮華経を自らも修行し、人にも教えるという根本の使命に目覚めれば、それが分かる。そこに、最も深い人生観があります。
妙法を持った我々は、本来、尊い地涌の菩薩である。ともに虚空会で広宣流布を誓いあってきた同志です。戸田先生は、それを「思い出すんだ」とよく言われた。
また、私たちは凡夫です。しかし、願って凡夫の悩みの姿を表しているのです。「願兼於業」です。妙法(真実)の力を証明するための宿業(方便)です。だから絶対に、悩みを乗り越えられないわけがない。
皆、この娑婆世界という舞台に登場し、広宣流布というドラマを演じる主演俳優なのです。

遠藤: 演じているということ(方便であること)を、いつのまにか忘れて、悩める役そのものになりきり(笑い)、苦悩に埋没してしまう場合もあります。それでは、いけませんね。

斉藤: 秘妙方便を理解するために、もう少し続けたいと思います。
方便と真実の関係を「権実」でいえば、南無妙法蓮華経を信受する前と、信受した後では、権教(方便)の意味が変わってきます。大聖人は、信受する前を「体外の権」、信受した後を「体内の権」として、こう説かれています。
「所詮謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なり —- 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり」(御書p714)
いったん法華経(実経、真実の教え)の智慧の世界に入れば、それまでの仮の教え(権教)も、「体内の権」として、それぞれ、全体の中に正しく位置づけられ、「権」は「権」のまま、法華経を証明する分々の「真実」となるわけですね。

名誉会長: そうです。先ほどのたとえで言えば、入信する前のさまざまな人生体験は「体外の権」であり、法用方便・能通方便に当たる。
妙法の素晴らしさは、入信したあとの体験がすべて秘妙方便として輝くだけでなく、入信する前の体験までもが、すべて生きてくるのです。これが「体内の権」です。
戸田先生もよく「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」と言われていた。

須田: 素晴らしい法理ですね。

名誉会長: 秘妙方便は、いまだ妙法を持たない人であっても、本人は知らないが(秘)実は妙法と一体(妙)であることを教えています。ゆえに、生命の奥底では、妙法を求めているのです。
御義口伝では「大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり」(御書 p714)と仰せです。このほか、秘妙方便については、論じたいことが尽きないが、法華経全体を貰くテーマでもあるし、別の機会にしよう。
ここで、特に明確にしておきたかったのは、先ほども触れた通り、仏法の「方便」思想は、そのまま最高の「教育」思想だということです。