投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月18日(木)06時44分44秒     通報
先日の夜にアップした「法華経の智慧32」は、「法華経の智慧31」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
法華経の智慧32

遠藤: 天台は根源の仏智そのものを「実智」、そこから生まれる方便力を「権智」と呼んでいます。その権実の二智を、釈尊自らが賛嘆しているのが、方便品の冒頭の部分です。

須田:「方便力」とは、牧口先生の用語で言えば、「技術」の上の「芸術」、そのなかでも、人間教育の最高の芸術ですね。

斉藤: 方便とは何か —- 。
天台は『法華文句』で、方便を(1)法用方便 (2)能通方便 (3)秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「方便品」の方便であると言っています。
「法用方便」とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用)で、人々に応じた利益を与える教えです。「能通方便」とは、真実に入る門となる教えを言います。
通り過ぎる門なので能通(能く通る=通ることができる)といいます。
これらはいずれも「方便品の方便」ではなく、「爾前権教の方便」の二つの側面です。法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へと導く面と言えます。

遠藤: 一例を挙げれば、低い教えに満足しているのを叱った「二乗弾呵」は、それによって真実に向かわせようとする能通方便であるとともに、利己主義の蒙を啓くなどの利益を与えているので、法用方便の面も含んでいます。
ある時は衆生を喜ばせ、ある時は厳しく弾呵し —- 「飴と鞭」と言うと、言葉が悪いですが —- 。

名誉会長: 悪すぎる(爆笑)。一面の真実を突いているかもしれないが(笑い)。
仏の教育法は、まことに巧みです。
仏は「天人師」と呼ばれ、また「調御丈夫」とも呼ばれます。「天人師」とは人間だけでなく天界の神々の教師でもあるとの意味です。また「調御丈夫」とは「人を調和させるのが巧みな人」とも言える。最高の目的観に立って、人々を誤りなく指導していくからです。仏とは“人間教育の最高の教師”なのです。
ともあれ、方便品で「正直に方便を捨て」と言われている方便が、法用・能通の二つの方便です。
これに対し、「秘妙方便」は、まったく違う。捨てるべき方便ではなく、そのまま「真実」である「方便」なのです。

遠藤: 方便といえば、「ウソも方便」(笑い)ではないですが、あくまで“手段”であって、“真実でないもの”と思い込みがちです。だから「秘妙方便」が方便でありながら真実というのは、理解するのが非常に難しいですね。

名誉会長: 確かに難しい。戸田先生も、秘妙方便について、どう皆に分からせようかと苦心されていた。
方便には「接近する」「近づく」という意味があるわけだが、それにも二つの方向性があると思う。一つは、現実から悟りへ近づかせる方向。これが法用・能通方便です。
もう一つは、悟りの境地から現実へと近づく。その悟りを現実世界に説明し表現していく方向。これが秘妙方便です。
同じ方便でも、方向がまったく逆になっている。

須田: そうしますと、前の章で論じていただいた「二処三会」の構造とも重なりますね。「霊鷲山から虚空へ」が法用・能通方便に、「虚空から霊鷲山へ」が秘妙方便にと。

名誉会長: そうとも言えるでしょう。
仏の智慧は甚深無量です。言語を絶し、説くことのできない究極の法である。方便品には「止みなん止みなん須く説くべからず 我が法は妙にして思い難し」(法華経 p163)とある。
そうした、言葉にもならず、考えることもできない真実を、言葉で説いたり、何らかのかたちで表現するとすれば、これはもう方便としかいいようがない。説くことのできない真実を、慈悲ゆえに、あえて説いた。それが秘妙方便であり、仏の智慧と一体の方便なのです。

遠藤: 天台は、法用・能通を「体外の方便」、秘妙を「同体の方便」と立て分けています。つまり法用・能通は仏の真実の智慧の外に立てられた方便、秘妙は真実と一体の方便ということです。今、言われたことと同じですね。

名誉会長: 秘妙方便こそ方便品の心であり、そこに「方便品」と名づけられたゆえんがある。また、秘妙方便の「秘」とは、ただ仏だけが知っているということ。すなわち一切衆生が仏だという真実を、仏だけが知っている。
そして、その真実は秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する。そうした不可思議な生命の実相を「妙」という。
十界論で言えば、仏界は九界の衆生には「秘」されている。しかし、縁にふれて九界の上に顕れてくる。この不可思議が「妙」です。
戸田先生は「秘妙方便」について次のように教えられています。
「私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙というのです。仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくられたのです。これが、秘妙方便の原理です。皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです」
「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」
凡夫がそのまま仏である。これは不思議です。思議し難い。「妙」です。法華経を信じない人には、とても分からない。「秘」です。