投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月17日(水)21時52分3秒     通報
■ 法華経は秘妙方便 ( p148)

名誉会長: 方便品全体の流れを見ると、開三顕一が主題となっているが、その前提として「方便」の思想があることが分かる。実は、迹門の開三顕一だけでなく、本門寿量品の開近顕遠の説法においても「方便」はキーワードになります。つまり、始成正覚が方便で、久遠実成が真実であると明かされていく。

斉藤: 法華経全体から見れば、開三顕一以上に「方便」のほうが重大なテーマだとすら言えるかもしれません。

遠藤: 方便品の「方便」は、サンスクリット本では「ウパーヤ・カウシャリヤ」と記されています。「ウパーヤ」という語は、英語でいうと「アプローチ」に当たり、「接近」「接近の手だて」という意味です。「カウシャリヤ」とは「優れた」「巧みな」という意味です。したがって、方便品の「方便」とは「巧みなる接近(の手だて)」という意味になり、漢訳では「善巧方便」と訳されます。

名誉会長: 要するに「方便」とは、衆生を成仏へと導く「教育」の方法であり技術です。人間の偉大な可能性を、最大に開花させる —- ここに法華経の心があり、そのために「方便」を説く。方便とは、広い意味での「人間教育」の手だてといえないだろうか。
実は、初代会長・牧口先生が教授法を図式的に記したメモに「1開 2示 3悟 4入」とあるのです。牧口先生は、仏が衆生を導く方法を、教育方法として取り入れられていた。

遠藤: それは知りませんでした。しかし、とても納得できます。
牧口先生の教育の主眼は、どこまでも生徒自身の可能性を開くことでした。「知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ」(『創価教育学体系』第五編第二章)と。

名誉会長: 牧口先生は、教育の混乱の原因は、その目的があいまいなことであるとし、「教育の目的は児童を幸福にすることである」とされた。当時、“国家の役に立つ”人間をつくるのが教育の目的であると多くの人々が考えていた時に、余りにも画期的な「児童本位」「人間本位」の教育観であった。
この信念から、創価教育の眼目も、一人一人が「幸福になる力を開発する」こととされたのです。
そして、医学にも技術があり、農業にも工業にも技術があるように、教育にも技術が必要である。機械的な「注入主義」でも、無策の「人格主義(感化主義)」でもいけないと主張された。技術 —- すなわち「方便」です。
そして教師を「無技術」「技術」「芸術」と三段階に分けられたのです。
どう子どもたちを幸福にするか。どう子どもたちの「幸福になる力」すなわち「価値創造の力」を引き出し、開示悟入させるか。この一点に、牧口先生は全精魂を傾けられた。
それは学者の机上の教育論ではなく、現実の教育実践の中で、子どもたちを愛し、子どもたちを救いたいという慈愛から生み出された教育の体系であった。

斉藤: 子どもたちへの慈愛から生まれた知恵だった —- そこに創価教育学の生命があると思います。
それで思い出されるのが、釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。
なぜ釈尊は逡巡したのか。そのときの様子を、方便品には、こう説かれています。
「私は仏眼をもって衆生を見た。彼等は貧しく、幸福への智慧もなく、生死の苦しみは絶え間なく続いている。欲望に執着するありさまは、牛が自分の尻尾を追うがごときである。貪りで自分自身をおおい、『大いなる仏』と『苦悩を断ずる法』を求めようとしない。このような衆生のために、私は大悲の心を起こした」(法華経 p185、趣意)と。

遠藤: そして、衆生の余りの救い難さに愕然としたのですね。
「どのように救えばよいのか。悟った法をそのまま説くと、彼等は信ずることができなくて、反対に法を破壊し、悪道におちてしまうだろう。それなら、いっそのこと説かないでおいたほうがよいのか。過去の仏と同じような方法で説くべきか」(法華経 p186、趣意)

斉藤: その時、十方の仏が、釈尊をこう励まします。「すべての仏と同じように、方便力を用いなさい。私たちも皆、そうしてきたのだから」(法華経 p187、趣意)
それを聞いて釈尊は「仏のおっしゃる通りにします」と喜び、決意する。
「我濁悪世に出でたり 諸仏の所説の如く 我も亦随順して行ぜん」(法華経 p187)
この場面は、先生の小説『新・人間革命』の「仏陀」の章で、学ばせていただきました。

名誉会長: 釈尊は「大悲の心」ゆえに悩んだのです。慈悲の「悲」とは「同苦」を意味する。「救いたい」という思いがあるから、「どう救えばよいのか」と悩むのです。
そういう慈悲があるからこそ智慧がわく。それが「方便力」です。「人間教育」の芸術です。
仏とは、ある意味で、悩み続ける人のことかもしれない。人々の「幸福になる力」を開くために。自身の使命を果たすために。

斉藤: 私たちが日々読誦している寿量品の最後の部分に「以何令衆生」(法華経 p510)とあります。「以何」とは「何を以ってか=どのようにして」という意味です。
ここにも、人々の幸福のために、どうしたらよいか常に考え続けているという仏の慈悲が表されています。

名誉会長: 方便品に「種種因縁。種種譬喩」(法華経 p153)とあるが、仏は相手に応じ、さまざまな因縁や譬喩を使って、正しい軌道に導こうとする。この仏の力を「方便力」と言います。
これは、その人のために、今、何を教えたらよいのかを知る力です。
言い換えれば、人々の生命状態を洞察する力であり、適切な教えを選びとる智慧の力です。また、いかなる衆生をも成仏へと育んでいこうという慈悲の力です。その根源には甚深無量の仏智があるのです。