投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月19日(金)01時23分4秒     通報
御書にも「臆病にては叶うべからず」(p1193)、「各各思い切り給へ」(p910)とありますように、勇気と信心には、密接な関係があることがわかります。ただし、勇気と蛮勇は似て非なるものであるので、その見極めはしっかりしていきたいと思います。先ほど、友人が蛮勇となっていたので注意したばかりです。

ちなみに蛮勇とは辞書によると「周囲への配慮をも捨てて,事をなす乱暴な大胆さ。向こう見ずの勇ましさ」とあります。いかに正しいことであっても、配慮なき戦いというのは乱暴であり、かえって皆を苦しめてしまう可能性を秘めています。ここをはき違えず、冷静沈着な前三後一の獅子のリズムが大事となります。蛮勇はただの無謀であり、自滅への道です。それを愚かともいいます。

悪との闘争は蛮勇(愚か)であってはなりません。蛮勇は隙だらけであり、悪とは通常権力側ですので、簡単に足元を掬われて、敗北します。戦うには周到な準備と智慧が必要なのです。戦いは、相手を甘く見たほうが負けるのは当然すぎる道理であり、善よりも悪のほうが十倍勢力であることを、よくよく頭に叩き入れなければなりません。うらら様の投稿にありますように、宿坊の掲示板で「情報の共有、学習」をし、現実の戦いに備えていくことが大事であると思います。蛮勇はかえって悪を増長しかねない危険性を秘めています。

いわんや現在の創価学会は、大きな力を有し、権力もあります。常に権力の魔性との隣り合わせであり、いつ何時、誰が狂ってもおかしくありません。狂った人間には道理は通じないですし、話し合いにならない。魔性とは「理不尽」であり、想いだけでは戦いにすらならない。学会の組織は、まだまだ内部の悪と戦えるだけの機根ではないのが実情でもあり、声をあげれば、かえって敵をつくってしまうような状況でしょう。現実の戦いは一歩一歩であり、本当に変革するのであれば、どこまでいっても一対一で、一人が一人を変えていくことがベストであると思います。経験上、一対一でなければ、本当の意味で、人は話を聞かないものです。

一人の地道な対話が、やがてハリケーンとなり、物事をひっくりかえしていきます。ある一定数(ティッピングポイント)に達すれば、ガラッと流れが変わり、大きく変化を生むことができます。そこまで戦い切れるかどうかが問われます。一人が一人を変える静かなる革命こそが王道であり、池田先生の思想と合致していると思うのです。下から上を変革するというのは、そういう地味な戦いが必須であると考えます。

戦いを起こすなら、「本気」であることが大前提であり、それが周到な準備となってあらわれます。準備なき戦いが勝てる道理はありません。どんな戦いも九割は準備で決まるからです。不用意で、安易な教義変更を強行した執行部の愚かな振る舞いを、反面教師にするのもよいでしょう。

広布と人生を語る1巻より
「全員が広宣流布のために、ほんとうに納得し、調和することを『異体同心』という」

納得が異体同心の団結を生みます。納得なき一方的な姿勢は、異体同心ではありません。そういう姿勢を責める人間が果たして団結を乱す存在なのか。それとも、責める人間を邪魔者扱いするほうが、団結を強固にするものなのか。教学部レポートに出てくる最高幹部の振る舞いは異体同心といえるのか。呼吸を合わせるべき相手を間違えると、団結そのものが破壊され、元も子もなくなる。真に、団結を乱す魔の存在は一体誰かを見極めていく必要があります。悪との闘争にも団結が不可欠であり、そのキーワードが「納得」なのです。故に、私はこれからも、極力平易な表現で、わかりやすい内容の投稿を心掛けていきたいと思います。