投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月18日(木)10時00分32秒     通報
大慈悲こそが仏の所作であり、無慈悲が第六天の魔王の所作である。といっても、凡夫には慈悲を顕現することは難しいので、それに代わるものは「勇気」であると戸田先生は言われた。勇気もまた仏の所作であり、保身や臆病は第六天の魔王の所作であり、眷属であると言えようか。

勇気を出さねば歴史は作れないし、自分のレベルを上げることもできない。勇気を出すときの独特の緊張感をどれだけ味わうかが、その人物の器に関係してくる。戦いとは結局のところ、どれだけ勇気を出すかであり、冷や汗だらだら掻きながらの闘争なのである。師子王の如くなる心も勇気の異名であり、それ自体が仏であり、もっとも気高い姿ではないか。よくよく考えるに、人を感動させるもの、触発を生むものもまた、勇気の姿でありましょう。

勇気が仏であるならば、保身や臆病は魔の心であり、結果的に第六天の魔王に支配されてしまう。指導者層の人間が保身や臆病であったら、多くの人を苦しめ、不幸にしてしまう。54年においても、誰も勇気を出すことなく、保身と臆病により、第六天の魔王に負けた歴史ではないか。側近幹部も、誰が正義かくらいはわかっていたでしょうけど、勇気を出さなかった。その結果、負の歴史として厳然と刻まれた。折伏においても、一歩踏み込む勇気が必須であり、だからこそ功徳も大きい。

ゲーテ
「財を失うことは小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。勇気を失うことはすべてを失うことである」

道を拓くのは勇気であり、道を閉ざすのは、保身と臆病である。然るべき立場の人間が、保身と臆病であったのなら、やがてすべてを失うことになるであろう。故に「勇気を意識せよ」であり、勇気を出した人だけが英雄になれる。勇気があれば、誰もが英雄になれるとも言えます。

勇気には莫大なエネルギーが必要であり、その源泉が題目です。題目をあげ、生命力を湧現させ、それが覇気となり、勇気へと昇華される。勇気を出した分だけ、偉大な人間になれる。人として偉い人というのは、まさに勇気を出した人であるといっても過言ではないでしょう。

今、創価学会の中枢に勇気があるのかないのか。保身や臆病に支配されていないか。勇気がなければ即、第六天の魔王の土壌となることを認識しなければならないし、恐れなければならない。本物の宗教だからこそ魔も強いのである。この危機感があってこそ、はじめて学会を護ることができるのです。