投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月17日(水)22時54分15秒     通報
・虹と創価家族様
発迹顕本もまた、決意することが大事になりますね。今、どれだけの人が、自身の発迹顕本を意識しているか。そして、何をもって発迹顕本とするかを決めていかなくては、現実に具現化することはできない。想いは形にしてこそ意味をなし、そこにこだわっていきたいと思うのです。
もちろん仏法は「不求自得」であり、求めずして得られる部分も多分にありますが、それだけではどうしても受動的な発想になりがちです。

広布と人生を語る4巻より
「受動の信心には功徳は少ない。信心はあくまでも能動でなければならない。」

本来功徳というのは勝ち取っていくものであり、座して待つものではないし、それでは面白味がありません。日蓮仏法の本質は攻めであり、守りではないでしょう。何もしなければ何も生み出せない。だからこそ、力あらば一文一口なのではないでしょうか。発迹顕本も自分自身で決めて、勝ち取っていくことが大事ではないかと思います。
虹と創価家族様の紹介してくださった先生の指導の中にも、「希望は、君たちが、自分の力でひっぱり出すことだ」とありますが、私は、「自分の力」という言葉に着目したいのです。受動ではなく、能動性であり、それが人生を開いていくということだと思います。自分の中に最高の力が眠っており、それをいかに引き出すかが勝負といったところでしょう。

・+ドライバー様
娑婆世界は名聞名利の風強く、誰もが傲慢になりやすい国土です。力がつけばつくほど、傲慢になる可能性も高くなっていきます。学会においても、活動家であればあるほど、活動を頑張っているという自負心が反転し、慢心につながるケースもあるので要注意です。
牧口先生は獄中闘争について、「大聖人の難に比べれば九牛の一毛」と言われました。圧倒的に戦っている人は謙虚です。なぜなら、戦えば戦うほど、打ち込めば打ち込むほど、自分自身はまだまだであることに気づくからです。上には上がいて、「自分は戦っている、頑張っている」と思っている段階では、まだまだであると捉えたほうが良いと思います。圧倒的にやってみてはじめてわかるのが「自分はまだまだ」ということであり、ここに気づけて一歩目といったところでしょう。

組織を発展させたり、社会で結果を出したりすると、まわりは「すごい」と誉めてくれます。魔は天界に住み、勝ったとき、結果を出した時が、増上慢になるタイミングであります。中途半端な自負心こそが増上慢の因であり、気づかぬうちに慢心を起こします。私は、御書全編の研鑽をしたときはじめて、自分はまだまだであることに気づきました。それまではいかに中途半端なレベルで満足していたことか。

学会活動も同じで、どれだけやっても足りるものではありません。やればやるほど、いかにやれていないかに気づかなければなりません。実質的にどれだけ広宣流布を進めているかを問わねばなりませんし、自己満足に陥っている場合もあります。活動一つとっても、ものすごい奥が深い話なのです。