投稿者:田舎丼   投稿日:2015年 6月17日(水)12時08分52秒     通報
ずるがしこく権力にすり寄っていく「保身の人」は迫害を受けない。
それは波が立たないからであり、風が吹かないからです。
『青春対話Ⅱ』p.173
「保身」に走るならば、広宣流布を捨てて、権勢におもねるしかない。
この職業僧侶たちの「保身」の帰結が、法をねじ曲げ、無残な大謗法を犯し続けることになったのである。
…「広宣流布」を捨てて、「保身」が目的となれば、人間は規範を失い、欲望の奴隷となっていく。
『新・人間革命』8巻・「宝剣」・p.180
御聖訓に照らして、三障四魔が競い起こらぬということは、広宣流布の戦いを放棄しているからである。
牧口は、そうした臆病な僧侶の、「保身」がもたらす罪悪性を、鋭く突いたのである。
『新・人間革命』8巻・「宝剣」・p.182
地位の安定を考える生き方の根本にあるものは保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。
保身に走る者は、結局は恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるをえない。
『人間革命』第12巻・68頁
戦時中も、宗門は保身のために法を曲げ、大聖人の御遺命を破り、軍部政府に迎合した。
そして、牧口先生と私が逮捕されるや、かかわりを恐れて、学会の登山を停止したのだ。…
戦時中、大聖人の仏法は、外敵によってではなく、臆病で、姑息な、僧侶の保身によって滅ぼされようとしたのだ。…
その中で、厳然と、大聖人の仏法の命脈を保ったのが、牧口先生であり創価学会なのだ。
『人間革命』12巻「寂光」・文庫版p.354~355 戸田城聖の言葉

大難を一身に受けながら、命をかけて戦っている  ――  この釈尊を、ずるい大人たちは、ただ傍観するだけでした。
自分が痛い思いをしなければ、それでいい。自分が巻きぞえにならないよう、うまく立ち回っておこう ―― こういう卑怯な心であった。
戦時中、アジアへの侵略戦争に抵抗し、殉教した牧口常三郎先生を見殺しにした「卑劣な坊主」や「意気地なしの幹部」も、まったく同じでありました。
彼らは、牧口先生を守るどころか、反対に、かかわり合いを恐れて、権力にへつらったのであります。
池田大作全集88巻p.13
「広宣流布」「国家諌暁」―― こう牧口先生は叫ぶ。
それに対して弟子たちは、「今の時期に無茶だ」「時期尚早だ」「皆、憲兵隊に連れて行かれてしまう」と、おびえた。
ふだんは「牧口先生とともに」と叫んでいた幹部が、「塩を振りかけられたナメクジ」よりも、だらしなくなった。
幹部だからといって、信用ができるとはかぎらない。
最前線の学会員のほうが、よほど信用できる場合がある。
第13回本部幹部会・〈平成9年7月9日〉池田大作全集88巻p.143-144
大聖人が大難を受けられたのは、すべて私ども民衆のためであられた。
ゆえに大聖人は「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」(御書1450頁)  ―― もし、恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が受ける)二つ打たれる杖の一つは、自分がかわって打たれるべきではないか ―― と述べられている。
いかなる難があろうと、私は断じて負けない。 戸田先生の一番弟子の私である。 牧口先生の直系の私である。 純真な学会員を守るために、私は耐え、私は戦う。
しかし、私一人が戦っても、門下があまりにもふがいないのでは、広宣流布の未来は、どうなるか。立つべき時に立たない人間は、御書に照らして、「仏敵」となってしまう。
池田大作全集88巻p.174
仏子のための献身、経文と御書に説かれた仏敵との戦い ―― それらを忘れ、また避けるのは卑怯な指導者である。
「仏法は勝負」と説かれるとおり、広布の敵と戦い、勝ってこそ、仏法のリーダーである。…
戦いを避けたのでは、存在する意義はない。
第12回全国婦人部幹部会(平成2年6月8日)池田全集74巻p.381
大聖人は「法華経の敵と戦わなければ成仏はできない」と、御書の中で幾度となく言われている。
たとえば、…「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(御書1494頁) ―― と。
現在の私どもの場合でいえば、どんなに信心に励んできたようであっても、法華経の敵、謗法の者、正法誹謗の者と戦わなければ成仏はできない、ということである。
創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会・池田大作全集74巻・p.298 ~ 300