2015年4月20日 投稿者:田舎丼 投稿日:2015年 4月20日(月)11時11分9秒 通報 休みの日の限られた時間しか ものを調べたり書いたりできませんので、前回の投稿から随分間が空いた点は御勘弁願います。 応答が遅くなる分この掲示板の議論の流れから浮いてしまうので、今後は自分のブログなりホームページを開設してマイペースで書き込む事を考えています。 ■ 源蔵さんへ 源蔵さん云く: > 弘安二年の本尊も「本門の本尊」であるけれども、「大謗法の地にある」故に、他宗寺院に安置されている大聖人真筆本尊と同様、参詣・礼拝しないということを、単なる周知徹底ではなく将来のために会則のレベルで明確にしたものと理解しております。< 「参詣・礼拝しないということを、単なる周知徹底ではなく将来のために会則のレベルで明確に」したい というのであれば、「会則のレベル」で「謗法の大石寺に参詣して弘安二年の本尊を礼拝しないように」という旨を記せばいいことです。 少なくとも趣旨説明①の様に、弘安2年の御本尊を受持=信受の対象にしない、と決定する必要は全くありません。 > 2002年の会則が不適切であったということではありません。当時の時代状況から2002年の段階では明確にできなかったことを、その後の時の変化を踏まえ、今回の会則改定で明確にしたと言えるのではないでしょうか。 < 「2002年の段階では明確にでき」ずに「今回の会則改定で明確にした」事が、趣旨説明①の「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」という事だったのならば、それは、大謗法の地にあった弘安2年の御本尊を信受の対象とした2002年の会則と完全に矛盾しますから、「不適切であった」とする方が妥当ではないでしょうか? 前回も述べましたが、既に大謗法の地にあった弘安二年の本尊を「信受」の対象とした2002年の会則改定に則って「弘安2年の御本尊」を「信受」してきたにもかかわらず、「学会員は皆」「絶大な功徳を受け」てきた、と今回の趣旨説明が認めている事はどう理解すればいいのでしょうか? > 田舎丼さんが大石寺に参詣しなくても弘安二年の本尊は受持できると言われていること自体、弘安二年の本尊を特別視する従来の観念に囚われた在り方ではないかと思われます。 < 私は「大石寺に参詣しなくても弘安二年の本尊を受持できる」という主張を、御義口伝(p.781)などの御書の文証にもとづきながら行っています。 それに反論されるのであれば、(私が引用した御書も含めて)御書の文証にもとづいた主張をされるように御願いします。 「弘安二年の御本尊を特別視するかどうか」と「弘安二年の御本尊を受持=信受の対象にするかどうか」は別の問題です。 「弘安二年の御本尊を特別視しない」ためには(執行部がやったように)弘安二年の御本尊を受持=信受の対象から排除しなければならない、ということはないでしょう。 大石寺に参詣することなく弘安二年の御本尊を信受の対象としている学会員の中には、弘安二年の御本尊を特別視する人もいるでしょうし、特別視しない人もいるでしょう。 「弘安二年の本尊を…他の大聖人真筆本尊ないしは書写本尊と同列の本尊とする」人に中には、執行部の「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」という決定に反して、大石寺に参詣することなく弘安二年の御本尊を受持(=信受)の対象としている人がいても不思議ではありません。 源蔵さん云く: > 日寛上人の教示であってもその全て絶対視し、無批判に受け入れるのは適切ではありません。 < 私が「日寛上人の教示…の全てを絶対視し、無批判に受け入れる」つもりの無い事は、既に4月2日の投稿で日寛教学の再検討について次のように言及している事からも明らかのはずです: >> 日寛教学の再検討については、学会員の間でも意見が分かれる所であり、日本のみならず世界各国のSGIメンバーとも意見交換を重ねながら、慎重の上にも慎重に議論を尽くして、万代に禍根を残さないようにするべきである事は云うまでもありません。 << 源蔵さんの先の投稿の、冒頭から「時代の制約、宗門人としての制約などを考慮していかなければならないからです。」まで述べられている事は、それに対する他の方の批判も含めて、私自身の検討の参考にさせていただきます。 依法不依人の原則から云って、末法の「経文」「仏説」である大聖人の御書に対せば、日寛上人の所説といえども「人師の釈」に当りますから、日寛上人の所説も大聖人の御書に照らして検討すべきであることは当然です。 (依法不依人については後述) ただ、教学部レポートも: 【引用】 いわゆる「戒壇の大御本尊」を巡る議論については、ある時期に決着をつけなければならないのは確かだが、学会が過去何十年にも渡って尊重してきた経緯もあるので、教義の根幹が混乱したり、会員の信仰が動揺したりしないよう、慎重の上にも慎重を期すべきだ (教学部レポート②) と述べているように、日寛教学・宗門教学の再検討は、詳細に資料を検討しつつ、日本のみならず世界各国のSGIメンバーとも意見交換を重ねながら、慎重の上にも慎重に議論を尽くして、日本の全ての学会員と海外の全てのSGIメンバーの中に十分な理解と納得の基盤を醸成していく事が最優先の課題です。 そうした上で、もし どうしても公式の発表が必要だ という声が大勢を占めた場合にのみ、会則条項改定なりを検討するべきだと思います。 利害によって結びついている企業組織と異なり、信仰の組織は、納得、信頼といった人間の内発性に基盤をおくものです。 会員の理解・納得が得られていない会則条項改定を、有無を言わさず会員に受け容れさせようとすること自体が、執行部が大きな心得違いをしている事を示しています。 教学部レポートにある様な「多少の退転はやむを得ない。9割は付いてこれる」、「多少、血が流れるのはやむを得ない」などというのは、「一人ももるれば恨ありぬべし」(佐渡御書961頁)という大聖人のお心に完全に違背しています。 ■ 依法不依人についての確認 多くの方には言わずもがなでしょうが、改めて「依法不依人」について確認しておきます。 御書の中で大聖人は「依法不依人」、即ち仏弟子である人師の論釈よりも仏自身の教え(仏説)である経典に基づくことの重要性を度々強調されています。 【引用】 仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをばいか何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か (唱法華題目抄 9頁) 【引用】 次に観心の釈の時本迹を捨つと云う難は法華経何れの文・人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや 設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり、 (立正観抄528~529頁) 【引用】 唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、… 天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。 (持妙法華問答抄 462頁) 「法に依って」の「法」は「経文」・「仏説」を意味し、日蓮仏法の立場では大聖人の御指南である御書が末法の「経文」・「仏説」であり「依法不依人」の「法」に当ります。 依法不依人の観点から言えば、末法の「仏説」である御書に対せば、日寛上人の所説も、その他の貫主・僧侶の所説も、創価の三代の会長の所説も、我々の所説も、すべて「人師の釈」になります。 御自身も貫主の立場であられた日興上人が、 【引用】 是れ全く己義に非ず 経文御抄等に任す云々。 (日興遺誡置文・1617頁) と述べられている様に、歴代貫主などの「人師の釈」が「己義」であるかどうかの判定は、あくまでも「経文御抄等に任」さなければならない、則ち末法の「仏説」である御書に照らして検証されなければなりません。 日寛上人の所説といえども大聖人の御書に照らして検討すべきであることは当然です。 勿論、御書の個々の文証に関する解釈が喰い違った場合には、御書の他の文証との整合性と道理に基づいて、問答によって正否を明らかにしていくことになります。 ■ 依法不依人に違背する宗門 依法不依人に照らせば、以下に見るような、貫主の指南を大聖人の御指南と等しいと見なす宗門の邪義は火を見るより明らかでしょう。 【引用】 大聖人の仏智による御指南は、血脈付法の御法主上人によってなされるのであって、私どもは、そこに信伏随従するのみであります。 (『能化からの返書』 大日蓮・平成3年9月号) 【引用】 本宗の根本は戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。 なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の御本尊と不二の尊体にましますからであります。 したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。 (『能化からの返書』 大日蓮・平成3年9月号) 【引用】 いつまでか判らないが、もちろん この職を退くときが来る。その時はまた、新しい方が次の法主として宗門を統されていくのである。 どなたがなろうとも、その方の御指南を大聖人様の御指南として正しく受けて行ってもらいたいことをおまえ達に望むのである。 (阿部日顕・昭和63年8月24日・第35回行学講習会) もし「大聖人の … 御指南は … 法主 … によってなされる」のであれば、また、貫主の指南を大聖人の御指南と見做せるのであれば、貫主が大聖人の御指南に相違した己義を構えるということも有り得ない事になり、大聖人の御指南に照らして貫主の説の正邪を判定する、ということ自体が無意味になります。 日興上人が: 【引用】 時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用いう可からざる事。(日興遺誡置文・1618頁) と誡められている様に、歴代貫主は「仏法に相違して己義を構え」かねない存在です。 事実、歴代貫主のなかには、日精や日恭のように大聖人・日興上人に背いた者も少なからずいたわけです。 その様な存在の説く所が大聖人の御指南=「仏説」と等しいと見做せるわけがありません。 日興上人が貫主の指南を大聖人の御指南に等しい と見做しておられたのであれば、「時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば」(上掲)と仰せになるはずがないのです。 ■ 11・8「認定」の御書の文証は? 11・8趣旨説明では、創価学会が受持の対象である御本尊を認定する、としています: 趣旨説明⑤: 【引用】 創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。 したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり… (大白蓮華4月号p.88上段) 御本尊「認定」に関して、教学部による「会則の教義条項改正に関する解説」では: 【引用】 いずれの宗教教団も、独立した教団である以上、その教団の本尊、聖典、礼拝施設等を決定する権能を有するのは当然である。 (大白蓮華4月号p.95上段) としています。 たしかに世間一般の立場から言えば「独立した教団はその教団の本尊を決定する権能を持つ」と言えますが、それは、あくまでも世間法上、国の法律上、認められる事です。 日蓮仏法上認められるかどうかは全く別問題です。 日蓮仏法上認められるかどうかは、あくまでも御書に照らして検討されなければなりません。 11・8改定後の条項が「御書根本」を標榜している以上、当然です。 執行部は、弘安二年の御本尊を受持(=信受)の対象から排除した自分達の「認定」が御書にもとづいたものであることを、御書の文証に依拠しながら証明しなければなりません。 大聖人が: 【引用】 迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり、私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり 総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ (四菩薩造立抄 989頁) と言われている様に、執行部は、弘安二年の御本尊を受持(=信受)の対象から排除した自分達の「認定」が、「日蓮が如くにし」ている事、「私ならざる法門を僻案」していない事を、御書の文証を示して証明しなければなりません。 ■ 「認定」する主体 =「認定」責任の所在 趣旨説明⑤によれば、受持(=信受)の対象である御本尊を「認定する」主体は「創価学会」です。 しかし、われわれ一般会員は、弘安二年の御本尊を受持の対象から排除した「認定」(排除「認定」)に全く関与していません。 11・8教義条項改定において弘安二年の御本尊を受持の対象と認定しない、と決定したのは、聖教新聞2014年11月8日1面によれば、以下の執行部の面々です: ・ 会長 原田 稔。 ・ 師範会議議長 森中理晃、並びに排除「認定」に賛同した師範会議メンバー。 ・ 最高指導会議議長 秋谷栄之助、並びに排除「認定」に賛同した最高指導会議メンバー。 ・ 参議会議長 川浦由明、並びに排除「認定」に賛同した参議会メンバー。 ・ 総務会議長 山本 武、並びに排除「認定」に賛同した総務会メンバー。 以上の執行部を除いた全ての創価学会員は、「認定」に関与していませんから、11・8教義条項における「認定する」主体である「創価学会」に含まれていない事になります。 もし執行部が、執行部以外の学会員も「認定する」主体である「創価学会」に含めている とするならば、それは事実に反しており、「認定」責任の所在を曖昧にするものです。 執行部を除いた全ての学会員に、「認定」の責任はありません。 執行部は直ちに、趣旨説明⑤を事実に即して: 「創価学会は…御本尊を認定します。」ではなく「創価学会・執行部は…御本尊を認定します。」へ、 「…「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり…」ではなく「…「御本尊」とは創価学会・執行部が受持の対象として認定した御本尊であり…」へと訂正すべきであり、同時に「認定」に賛同した執行部一人一人の名前を明記して「認定」責任の所在を明確にしなければなりません。 そして、11・8教義条項改定が引きがねとなって「認定」責任の無い創価学会員・SGIメンバーが晒されている宗門や顕正会からの攻撃に対して、「認定」責任を負う執行部全員一人一人が責任をとって反撃していくべきです。 加えて、聖教座談会や創価新報で「教義条項改正」を容認する発言をした学会幹部たちも同様に、容認した責任をとって宗門や顕正会からの攻撃に対して反撃していくべきです。 排除「認定」にもとづいた宗門や顕正会からの攻撃に対して、われわれ「認定」責任の無い創価学会員・SGIメンバーが反撃する義務も必要も全くありません。 ■ 他宗が保有している大聖人御自筆の御本尊については、私自身、皆さんの御意見を参考にしながら検討中ですが、日興上人は、大聖人が弟子檀那に与えられた大聖人御自筆の御本尊について次のように仰せです: 此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、 「富士一跡門徒存知の事」御書1606頁 上の日興上人の仰せに従えば、宗門はじめ他宗が所有している大聖人御自筆の御本尊は、将来いつの日か謗法を改めた所有者が自発的に「仏意仏勅の和合僧団」に返納した時に、「同一所に安置し奉り」保管していくべきではないかと思います。 無論、謗法を改めるための働きかけ(=折伏)が必要ですが、返納はあくまでも所有者が自発的に行うべきであって、いささかたりとも強制や圧力があってはならない事は云うまでもありません。 但し、その時に、返納先の「仏意仏勅の和合僧団」が創価学会である保証はありません。 創価学会が「仏意仏勅の和合僧団」であり続けるためには、自らが「法華経の行者」と共戦する「仏意仏勅の和合僧団」であることを、自らの行動で証明(=身業読誦)し続けなければなりません。 池田先生が「大難を受けないのは、本当の“法華経の行者”ではない」(『法華経の智慧』3巻・p.180)と言われているように、大難を受けながら権威・権力の魔性と闘い続けていかなければなりません。 その中で、学会員一人一人が、永遠の指針である「難を乗り越える信心」を確立していく、ということだろうと思います。 Tweet