投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月16日(火)07時09分51秒     通報
斉藤: 法華経の会座の衆生は、この虚空会に昇ることによって、いってみれば“無明の大地”の束縛を打ち破り、自在無礙の“法性の大空”にかけ昇ったといえるのではないでしょうか。

須田: 御書にも「実相真如の虚空」、また「法性真如の大虚」との言葉が拝見されます(御書 p1443)。「虚空」のもつ意味の一端が示されているように思います。

名誉会長: 「虚空とは寂光土なり」(御書p742)と大聖人は仰せだが、虚空会は広大な「仏の世界」「悟りの世界」を示しています。
この「実相の世界」「真如の世界」は、時間・空間を超越しています。
空間的には、無限の宇宙に広がっている。
虚空会が始まる見宝塔品では、いわゆる三変土田によって、娑婆世界が浄化され、実に広大な仏土が形成されます。また、虚空会が終わる神力品・嘱累品の付嘱の儀式では、いわゆる十神力の一つとして、十方(東西南北と東北・東南・西北・西南の四維と上下の二万)の世界が隔たりのない一仏土であることが示されている。
また時間的には、永遠の世界である。
虚空会の儀式は、過去の仏である多宝如来と現在の仏である釈迦如来が並んで座って始まります。そして未来の仏である上行菩薩が呼び出され、上行菩薩への付嘱をもって終わる。
「過去」「現在」「未来」が、この儀式に納まっている。
このような「永遠」にして「無限」の仏の世界を示すためには、虚空会という、時空間の枠をたたき破った舞台こそがふさわしいのではないだろうか。

遠藤: 民衆に分かりやすく、象徴的に、映像的に表現しようとしたのですね。

名誉会長: 虚空会は、特定の場所・空間を超えているゆえに、逆に言えば、どこの場所にも通じている。特定の時点・時間を超えているゆえに、いつの時代、いつの時にも通じているのです。
ただ、ここで考えなくてはならないのは、虚空会だけでなく、二処三会という法華経全体の流れが、何を表そうとしているかです。

須田: 霊鷲山会と虚空会の関係は、生命論のうえから、非常に深い意味をもっているように思うのですが。

名誉会長: 前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば「現実→悟りの世界→現実」という流れです。
より正確に言えば、「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の現実」という流れになっている。
時空間や煩悩.生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見おろす虚空の高き境涯に到達しなければならない。
その高みから見れば、一切の苦しみ、悩み、喜怒哀楽も、すべて浮島のごとく小さな世界での一喜一憂にすぎないことが、ありありと見えてくるのです。大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(御書 p1143)と仰せです。
これが虚空からの眼であり、仏法の眼であり、信心の眼です。
そうなるための修行が唱題行です。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」(御書 p740)と仰せです。
私たちが御本尊に勤行・唱題している信心の姿は、そのまま「虚空会」に連なっているのです。
これほど、ありがたいことはない。戸田先生は、勤行・唱題は「我ら凡夫の日常において、これほど崇高なる場はないのです」と、よく言われていた。
虚空に昇るというのは、透徴した信心によって、我が境涯を引き上げるということといえる。
「前霊鷲山会→虚空会」の流れには、こういう意義がある。

斉藤: そうしますと、続く「虚空会→後霊鷲山会」という流れは、勤行・唱題で得た仏界の生命力に基づいて、再び生活・社会の現実へ戻っていく、挑戦していくということに当たりますね。

名誉会長: そう。生活即信心であり、信心即生活です。法華経は、絶対に現実から離れない。ここに偉大さがある。
ひとたび虚空会に住してみれば、厭うべき現実も、今度は、仏界を証明するための現実となる。苦しみ、悩みも、信心を証明し、信心を強めるためのものとなる。煩悩即菩提です。変毒為薬です。
汚れた九界の世界から仏界を開く、すなわち「九界即仏界」が「前霊鷲山会→虚空会」といえよう。今度は「仏界即九界」で(虚空会→後霊鷲山会)、九界に勇んで救済者として入っていった時、汚れた九界の穢土が、仏界に照らされた寂光土になっていく。穢土即寂光土です。
その時は、無常・苦・無我・不浄のこの世が、常・楽・我・浄の世界になっていくのです。
「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」(御書 p1243)と、大聖人は仰せです。序品の登場人物に象徴される九界の生命は、すべて妙法に照らされ、凡夫が凡夫のままで、最高に尊き本来の姿となって、現実社会に輝きを放っていくのです。
現実から虚空会に、虚空会から現実へ —- この往復作業に「人間革命の軌道」がある。
小我から大我への境涯の革命があるのです。
人生は、目の前の現実にとらわれていてはいけない。理想を目指し、現実を超えねばならない。一方、現実から遊離してもならない。地に足が着いていなければ、何も変わらない。
多くの人生が、また多くの宗教が、社会の現実に「妥協し埋没」するか、「隔絶し逃避して別世界をつくろう」とする。そのどちらも誤りです。

遠藤: 日顕宗は、両方の誤りを犯しています(笑い)。

名誉会長: 法華経の本義はどちらでもない。虚空という生命の高みから現実を見おろしつつ、その現実へ「変革者」として、かかわっていく生き方を教えるのです。
「変革の宗教」としての法華経の特徴は、二処三会という全体の構成そのものに、見事に表現されているといえるでしょう。

斉藤: よくわかりました。「変革の宗教」といえば、特に日蓮大聖人の仏法の著しい特徴です。

名誉会長: そう。実は、大聖人の仏法と釈尊の仏法の特質の違いを、この「二処三会」の構造を借りて説明することができる。

須田: どういうことでしょうか。

名誉会長: 釈尊の仏法は、どちらかといえば、霊鷲山から虚空会へ、すなわち現実生活から、仏の智慧の世界を求めていく仏法です。虚空会で説かれる寿量品の文底に秘し沈められた「南無妙法蓮華経」が目標であり、ここに到達しようとする仏法です。
これに対し、寿量文底から霊鷲山へ、すなわち「南無妙法蓮華経」から現実生活へと向かう方向が強く出てくるのが大聖人の仏法です。現実変革を目指す仏法であり、民衆の中へ慈悲の行動を展開していくのが、その実践です。