投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月16日(火)13時04分17秒     通報
斉藤: そうしますと、「上求菩薩(上は菩提を求め)」「下化衆生(下は衆生を化する)」という菩薩の生き方のうち、釈迦仏法は「上求菩提」に、大聖人の仏法は「下化衆生」に、それぞれ力点を置いていると見ることもできるのではないでしょうか。

名誉会長: その通りだね。もちろん「下化衆生」のためには、絶えざる「上求菩提」が必要となることは当然であるが —- 。
これは、釈尊の「従因至果」の仏法と、大聖人の「従果向因」の仏法の違いといってもよいだろう。
少し難しくなるけれども、端的にいえば、従因至果とは「因依り果に至る」ということで、九界の衆生(困)が、仏界(果)を求めて修行していくことです。
従果向因とは、逆に、「果従り因へ向かう」ことで、御本尊への唱題によって即座に得られた仏界(果)を根底にしつつ、現実の九界(因)の場へ向うことです。
あえて譬えれば、釈尊の仏法は、ふもとから頂上を目指して、山を登っていくようなものです。その途中、頂上がいかに素晴らしいか、言葉では説明されるけれども、実感としては分からない。本当に頂上にたどり着けるのかどうかも保証されていない。道に迷うことも、遭難することもあるでしょう。
それに対し、大聖人の仏法は「直達正観」であり、原理的には、直ちに頂上に立つようなものです。そこで、素晴らしい眺めを実感として満喫し、その喜びを何とか人々に伝えようと、ふもとへ降りていくのです。社会に入っていくのです。

斉藤: 法華経で、滅後の弘法を託されたのも、“山を登ってきた”迹化の菩薩ではなく、“すでに頂上に立ち(仏果を証得し)、社会へ降りていく”地湧の菩薩です。

名誉会長: 私どもの信心と実践でいえば、日々の勤行・唱題は、一往は九界から仏界へ至るための修行であり、従因至果といえます。
しかし再往は、それ自体が即仏界に連なっている。そこから現実生活に妙法の智慧と慈悲を広げていく、従果向因の活動の出発点となっている。
御本尊に南無し、唱題しゆく信心のなかに、この従因至果、従果向因の二方向が同時に包含されている。ここに大聖人の仏法の卓越性がある。

斉藤: 「南無=帰命」でいえば、妙法蓮華経に「帰して」いく、そして次に妙法蓮華経に「命いて」行動していく —- この帰・命の双方向が南無妙法蓮華経に含まれているわけですね。
仏の悟りの境涯自体に、この双方向があるのだと思います。そうでなければ真の悟りとは言えないのではないでしょうか。その意味で、仏の悟りの全体像を二処三会で表し、人々に伝えようとしたのだとも考えられます。

名誉会長: それは、これからの探究課題にしよう。
いずれにしても、法華経は不思議な経典です。仏の智慧は甚深無量であり、その悟りは頭では考えられないし、言葉でも表現し尽くせない。このように仏の智慧を賛嘆しながら、他方では、すべての人々に仏の智慧を開かせ、悟りを得させるのが、仏が世に出現した目的であると説く。
そして、そのために説かれるのが法華経であり、法華経を聞けば必ず成仏できると強調する。たとえ仏の滅後であっても、法華経を聞いて一句でも一偈でも心にとどめた人は必ず成仏すると何回も説いています。
聞くだけで成仏できる。そのように法華経の功徳を賛嘆しながら、悟りの内容は表立っては説いていない。これほどしきりに自経の名を挙げて賛嘆している経典も珍しい。ここに法華経の不思議さがあり、秘密があります。虚空会や二処三会は、この法華経の秘密を解く一つの鍵だと言える。

遠藤: 二処三会が仏の悟りの全体像を反映しているということは、仏の十号(十種の尊称)の一つである「如来」という言葉にもうかがえます。
大乗仏教では如来を「真如から来生するもの」ととらえています。つまり、「悟りの世界」である真如から現れ、慈悲と智慧の体現者として衆生を教え導いていく仏の異名を「如来」と呼んでいるわけです。

名誉会長: 仏とは実践する人です。戦う人です。悟りの境地に安住しているのが、仏ではない。衆生のために、衆生を救うために九界の大地で戦い続ける人が仏です。如来です。
大聖人は「古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよ」(御書 p1506)と仰せです。「心地を九識に」とは「虚空会に住する」ことにあたり、「信心に住する」ことにあたるでしょう。「修行をば六識に」とは、どこまでも現実を離れてはならないということと言えないだろうか。

須田: そうしますと、この御文も「二処三会」、特に虚空会から後霊鷲山会への意義を教えてくださっていると拝されます。“真如から来生する”「如来」の精神を示されているといえますね。

斉藤: 後霊鷲山会では、主だったものだけでも薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩などの菩薩たちが、表舞台に登場します。これらは、根本的には如来行を行ずる菩薩であり、それぞれの力を発揮して如来滅後の法華経の広宣流布を助けるのだと思います。

名誉会長: 虚空会の儀式を経て、これらの菩薩の現実における多彩な働きが説かれている。ここに深い意義がある。

遠藤: 仏界の生命に命いて、智慧と歓喜を表現していく姿ですね。

名誉会長: そうなるだろう。学会が世界で繰り広げている、仏法を基調とした平和・文化・教育の運動も、この方程式に則ったものにほかならない。
生命の永遠性の世界の鼓動を、現実の上に反映し、現実を変革していく —- そこに法華経のもつ生き生きとした宗教性がある。文化創造のダイナミズムがある。

須田: 日本では、仏教というと、宗教の世界に閉じこもっているような印象が強いですが、これは大きな誤りですね。

名誉会長: そのようなイメージをもたらしたのは、ひとえに、これまでの仏教指導者の責任です。
現実の社会を離れて仏法はありません。仏法即社会です。社会即仏法です。一民間人である私が、世界の識者・文化人と対話を重ね、微力ながら、人類的課題の解決への道を探求しているのも、ひとえに、この仏法者としての信念からなのです。
仏法の心、仏法の智慧を、常に社会へ、世界へとダイナミックに展開していく。それでこそ真実の仏法です。宗教の世界に閉じこもるのは宗教の自殺行為です。
法華経は「世間の法が、そのまま仏法の全体」と説いていることを、大聖人は教えられています(御書 p1597)。