投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月15日(月)20時59分36秒     通報
■ 霊鷲山から虚空へ、そして再び霊鷲山へ

遠藤: さて「登場人物」の次は、「舞台」ですが。

名誉会長: そうだね。ここでは、序品の舞台の霊鷲山だけでなく、「二処三会」に触れておこう。

遠藤: はい。法華経全体の流れをみますと、序品(第一章)から法師品(第十章)までは、霊鷲山を舞台に展開されます。
そして見宝塔品(第十一章)の冒頭、巨大な宝塔が突如として大地から涌出して空中に浮かびます。その宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並んで座り、一座の大衆も空中に引き上げられて、説法が行われていきます。この「虚空会」が嘱累品(第二十二章)まで続きます。
次の薬王菩薩本事品(第二十三章)からは、再び霊鷲山に戻り、最後の普賢菩薩勧発品(第二十八章=終章)まで雲鷲山での説法となります。

須田: 法華経の「舞台」は、初めと終わりが霊鷲山(前霊鷲山会と後霊鷲山会)、中間が虚空(虚空会)。二つの場所で三つの集会があった。そこで「二処三会」というわけです。

斉藤: 霊鷲山が、現実に存在する説法の場であるのに対して、虚空会というのは、いわば“超現実”です。宝塔の大きさにしても、ある計算によれば、地球の三分の一から二分の一という巨大なものになってしまう。
なぜ、そんな現実離れした虚空という場を設定し、想像も及ばないような宝の塔を登場させなくてはならなかったのか。この点が重要ですね。

名誉会長: 詳しくは後で論じたいと思うが、宝塔や虚空の意義については、これまで会った仏教学者の方とも話題になりました。

遠藤: 例えば、ネパールのシャキャ博士は、こう言われていますね。
「虚空会の儀式は、仏の偉大な境地の象徴であり、その『現在』のうちに、『過去の十方世界』も『未来の十方世界』も含んでいると考えられます。時空を超越しているのが『仏界』です。虚空会で説かれている世界を悟れば、人間には何でもできる力が出るということです」と。

須田: 戸田先生は、虚空会の儀式について次のようにおっしゃっています。
「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力およぴ状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である」と。

名誉会長: 先生は、宝塔出現の意義、宝塔とは何かを明確に教えてくださった。あの巨大な宝塔も、私たちの生命に潜在する仏界を表現したものなのです。生命の宇宙大の尊貴さを教えているのです。

斉藤: 「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(御書 p1304)の御文の通りですね。

名誉会長: 宝塔について質問した阿仏房に対して、「あなたの生命そのものが宝塔なのですよ」との御本仏の御断言です。大聖人の温かい肉声が聞こえてくるような御言葉です。

遠藤: 宝塔品の会座で、一座の大衆の願いのままに、釈尊が神通力をもって大衆を虚空に引き上げますが、そこにも仏の慈悲が感じられます。

名誉会長: 仏は、高みから衆生を見ているのではない。同じ高さに引き上げようとする。同じ尊極の宝塔であると教える。ここに法華経の哲学がある。大聖人の御精神がある。真の人間主義です。
宝塔品に説かれる虚空会の儀式も、仏が悟りの境地を民衆に何とか伝えようとする慈悲の現れです。