投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月15日(月)12時38分14秒     通報
須田: また、宝掌菩薩とは“宝を手にした”という意味ですし、勇施菩薩は“施しの勇者”といってもよいでしょう。宝月菩薩、月光菩薩、満月菩薩などは、さまざまな智慧の光で人々を照らすという菩薩の生命の働きを象徴していると思われます。

遠藤: 弥勒菩薩は“慈しみの師”という意味ですし、宝積菩薩は“宝の根源”を意味します。最後の導師菩薩は“キャラバン(隊商)のリーダー”の意味で、多くの人を成仏へと導いて行く指導者の働きを表しています。

斉藤: 菩薩の次は、天界の衆生が挙げられます。筆頭は天界の帝王である釈提桓因(帝釈天)です。帝釈天はもともとは古代インド神話の中心的な神の一つであるインドラ(雷神)でした。

遠藤: 自在天子、大自在天子もバラモン教の主神の一つで、世界を破壊する神とされるシヴァ神の異名です。そして世界創造の最高神とされる梵天王(ブラフマーさえも、眷属とともに連なっています。

名誉会長: 神々が法華経の説法を聴きにきているということは、仏が神々をも超え、それらを導く存在であることを示している。仏の別名に「天人師」とあるように、仏は、諸天をも人をも導く師です。
成道した釈尊に、梵天が説法を要請したとされているが、仏を、インドの伝統的な神々を遥かに超えた存在として位置づけるのが、仏法の基本的な考え方です。

斉藤: 次に八竜王が挙げられます。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王等が多くの眷属とともに集っています。このうちの娑伽羅龍王の娘が、「女人成仏」の範を示した竜女です。

遠藤: さらに、八部衆と呼ばれる種々の想像上の衆生が挙げられています。先の天と竜も八部衆に含まれますが、仏教では別格に扱われています。これは、仏教以前に天や竜がこの世の主として信仰されていたことによると思われます。

須田: 八部衆とは、(1)天(天界に住む諸天)(2)竜(海・池などに住む畜類)(3)夜叉(森などに住む鬼神)(4) 乾闥婆(帝釈天に仕える音楽の神)(5)阿修羅(天に敵対し、須弥山下の海に住む鬼神の一つ)(6)迦楼羅(竜を主食とする鳥で、翼・頭が金色なので金翅鳥と訳される)(7)緊那羅(楽器を奏する音楽の神で半人半獣の姿)(8)摩ゴ(目ヘンに侯)羅伽(人身・蛇頭の神)です。

名誉会長: 人間だけではない。広く、生きとし生けるものを救おうとしているのです。また仏教以前からインドの各地で信仰されてきた神々が、法華経の会座に列座しているのも興味深い。これは、これまで最高の存在とされた神々を、「外にあって人間を支配する実体」ではなく、人間の生命そして宇宙の生命の「働き」として捉えたからです。
このように、仏の悟りは深く生命の根源に到達しているのです。その根源の一法を明かすのが法華経です。ゆえに法華経を行ずる者は、諸天をも動かす生命の王者となる。
大聖人は「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」(御書 p958P)と仰せです。
また、天と阿修羅、竜と迦楼羅といった敵対関係にある者たちが同席しているのもおもしろい。民族対立を煽るような宗教は低級宗教だと言っているようだね。法華経は平和と平等の教えです。