投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月14日(日)22時51分59秒     通報
・何を持って発迹顕本と言うか
・どうすれば発迹顕本できるのか

共戦様より極めて重要な問いかけがありましたので、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

多くの会員は、今の創価学会は盤石(数も多い)であり、しかも本門の池田門下とも呼ばれています。当然、執行部や職員等の幹部は、先生から直々に訓練を受けた弟子であり、正しく先生の意志を継いでいると思われていると思います。そのような人たちが、よもや簡単に間違いを犯したり、道を踏み外すことはないであろうし、あったとしても一部であり、大部分は健全であると捉えているのではないでしょうか。ある種、それが普通の感覚であり、だからこそ組織を信じて、日々、活動を推進しているところでありましょう。

しかし、教学部レポートによって、内情が暴露されました。尊敬され、信頼されるべきはずの最高幹部の横暴で、傲慢な振る舞いがそこにはありました。まさに教学部も驚愕する振る舞いだったのです。心ある人が読めば、当然教学部と同じような印象を受けることかと思いますし、とても困惑することは想像に難くありません。先生の側近で本物なんだろうと思い込んでいた錯覚は、悉く粉砕されたわけです。

思い込みほど恐ろしいものはありません。これだけ多くの会員を有し、多彩な人材のいる創価学会なのだから盤石であるという錯覚は、「誰かがやるだろう」という思考に陥りがちです。54年の時もそうですが、「誰かがやるだろう」は、結局のところ「誰もやらない」ということだったわけです。

では、一人ひとりの発迹顕本とは何を指すのか。それは、自分自身が第二の山本伸一になること(通称ミスターセカンド)を決意することであると考えます。人生というのは、自分自身の一念の反映であり、それが結果となります。いくら行動をしても、一念がおかしければ、その一念通りの人生となります。故に、行動をみるのではなく、一念を観ていくのが観心であり仏法なのです。行動に捉われるのは策であり、肝心要は一念なのです。それは絶対にごまかしは効かず、例え行動が正しかったとしてもダメなのです。それを大聖人はわかりやすく「心こそ大切なれ」と表現されています。

宿命の転換というのは、「一念の転換」であり、それが為されてこそ人生は変わります。逆に、どれだけ信心しようとも、一念が転換されなければ、いつまで経っても同じことで悩み続けるわけです。自身の一念を意識し、転換させていくことを心掛けなければなりません。そして、一念の転換をしていくためには「決意」が大事になります。教学部レポートを仏眼で見るならば、まさに一人ひとりに対しての一念の転換を促している文章であると読むことができるのです。また、そのように読むことが価値であり、傲慢な幹部の振る舞いを通し、「よし、それならば、自分自身が第二の山本伸一になろう」と決意する。これこそが発迹顕本であり、本門の池田門下の生き方、考え方であると思うのです。

御書(p1596)
「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」

志ざしとは決意であり、決めることなのです。ミスターセカンドになると決めることができるか否か、ここが問われているのです。ミスターセカンドになるという自分自身の決意が因となり、そこから幾万の山本伸一が生まれてくるのです。これが仏法です。山本伸一にしか山本伸一を育てることはできません。先生は山本伸一になる種を蒔いて下さいました。私はその先生の意志を継ぎ、自分自身がミスターセカンドになると決意しています。