投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月 9日(火)02時20分59秒     通報
どれだけ信心歴や学会活動の経験があろうと、「人としてどうか」であり、そこが磨かれていなければ意味がないですね。信心をするということは、己を磨きぬくということでもあり、自省なき信仰に成長はない。幹部になればなるほど、人格も比例して磨かれていないと、会員を苦しめてしまう。だからこそ、最高幹部は厳しく見られなくてはならず、何も言われなくなると、気づかないうちに慢心してしまう。それが権力の魔性に食い破られる因となり、道を踏み外すことになる。実に恐ろしいことであると思います。

もしも然るべき立場の人がこの掲示板をみて、ただの内部批判や内部錯乱にしか映らないようであるなら、それ自体が問題です。内部の増上慢を明らかにし、指摘していることと、内部批判・錯乱とは似て非なるものであり、その区別がつかないようでは悪と戦うどころではありません。信心の眼でみれば、底の浅いものではないことはわかるでしょう。もちろん自由参加の掲示板であるが故に、敵も含め、いろいろな人が関わってきますが、もしも変な動きがあったとしても、見抜かれないほど甘くはありませんし偽物は通用しません。

創価学会は三代までは本物ですが、それ以降はまだ本物の証を示せてはおりません。それが54年であり、今再び、54年と同じことが問われています。すなわち、三類の強敵と戦う信心が問われており、本物の信心へと昇華するための御仏智であると捉えています。教学部レポートが世に出たことは、プラスの側面とマイナスの側面があり、片方のみを強調する気はさらさらありません。マイナスの面も含めて、すべてを善の方向へと変毒為薬していくのが仏法であり、そのために私は投稿しております。

正義であるという自覚があればあるほど、自分たちのプラス面にしか目がいかず、マイナス面から目を背けるようになります。これは学会員が陥りやすい思考です。幹部の一方的な姿勢や出来レースになりがちとなり、話を聞かなくなるのもこのためです。正義というのは実にやっかいなものなのです。

学会=正義=間違いない
これが幹部無謬を生み、おかしくなったとしても気づくことすらできない。天台の慈覚・智証という無能のトップによる邪教化、五老僧の自分たちが正しいとの勘違い、法主の狂乱、某全国男子部長の解任等、いくらでも前例があるのだから、そこから学ぶべきでしょう。

ともあれ、仏法というのは増上慢との戦いであり、「池田先生の側近なのだから大丈夫」と考えるのも油断であり、厳しく言うと慢心です。むしろ先生に近ければ近いほど、狂う可能性を秘めている。これが仏法の原理であり、これからは何が起きてもおかしくないのです。最高幹部が反逆しようと狂おうと、権力の魔性にとりつかれようと想定内であり、驚くことではありません。

御書「天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(p234)

この先、師敵対の幹部がわんさか溢れ出てくるかもしれませんが、その時に「はじめて聞いた」と慌てふためくのは愚かです。これは誰かに言われてわかることではないのかもしれません。結局は自覚の問題といったところでしょうか。