投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月13日(土)13時59分15秒     通報
斉藤: 序品では次に、釈尊が無量義処三昧に入って、種々の不思議な現象を現します。これが第二の部分です。

須田: 無量義処三昧とは、仏の無量の教えの根源の法に心を定める三昧(瞑想)のことです。

名誉会長: この三昧の名に、これから説かれる法華経が、あらゆる教えの基礎、根拠となる究極的な教えであることが暗示されている。無量義経に「無量義とは一法より生ず」(法華経p84)とあるが、この究極の一法が法華経で説かれていくわけです。

遠藤: 釈尊が、この三昧から安詳として立ち上がり、説法を始めるのが、次の方便品(第二章)ですから、序品では、釈尊は説法をしません。ただ、三昧に入って、神通力で種々の不思議な現象を現すだけです。

須田: 天から曼陀羅華や曼殊沙華などの花が仏や衆生の上に降ったり、大地が六種に震動するなどの現象が示されます。これによって、その場の衆生はかつてない気持ちになり、歓喜して一心に仏を見ます。すると仏は、眉間の白毫から光を放ち、その光が東方の一万八千の世界をくまなく照らし出します。
*白毫は、仏身に具足するといわれる三十二相の一つ。仏の眉間には、清浄で柔軟な白い繊毛が右回りにはえていて、たえず光を放っているとされた。

名誉会長: それだけ聞くと、いきなり「法華経はおとぎ話か」と思う人もいるにちがいない。今で言えばSF(サイエンス・フイクション)小説かと(笑い)。
戸田先生も、序品で集まった衆生について、こう言われていた。
「舎利弗およびその他の声聞衆が万二千人、菩薩方が八万、耶輸多羅等の眷属が六千人、阿闍世の眷属が何千人、また八番衆の眷属といいますと天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・伽楼羅・緊那羅・摩ゴ(目ヘンに侯)羅伽というような連中が、何万人という眷属を連れてきている。霊鷲山会に、ざっとその数を計算しても、何十万という衆生が集まったことになる。菩薩だけ集まっても八万人。声聞だけ一万二千集まるといってもたいへんです。拡声器もなかった時代に何十万の人を集めて釈尊が講義したと思われますか。法華経の文上からみれば集まったことになっている。これはたいへんな数です。何十万の人を集めて講義したと。それならウソかと。ウソではない。ではほんとうに集まったのか。何十万の人に拡声器もなくて、いくら仏が大音声を出したからといって講義できましょうか」
「八年間、それらの人たちが集まっていたというのです。八年間集まっていたら飯をたくだけでもたいへんです。便所なんかどうしたと思いますか。ではウソかというのか。ウソではない。集まったともいえるし、集まらなかったともいえるのです」
「その何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。何千万いたってさしつかえない」
戸田先生は、法華経を、仏法を、人間の現実とかけ離れた架空の話や、観念論にはさせたくなかった。また、絶対にそうではないという確信があった。生命の法であり、己心の法であることを如実に知っておられたのです。
この観点からみれば、東方を照らす仏の白毫(びゃくごう)の光についても、生命の深い真理を表していることがわかる。
大聖人は「白毫の光明は南無妙法蓮華経なり」(御書 p712)と仰せです。妙法の光であるからこそ、下は無間地獄から、上は有頂天に至るまで照らし出したのです。無間地獄の衆生ですら成仏させる力をもっているのが妙法です。

遠藤: その光で照らし出された世界では、それぞれの国土の仏が説法し、その教えを受けた人々が実にさまざまな修行をしている。さらに仏が入滅し、入滅後の人々が仏を慕って仏塔を供養する —- そうした有様が映画のようにつぶさに映し出されていきます。

名誉会長: 宇宙をスクリーンとする、壮大きわまりない映画だね。全宇宙が法華経の舞台であり、すべての仏が妙法を根本として成仏した。この根源の一法たる妙法を説き顕すのが法華経なのです。その大法が、これから説かれるゆえに、その瑞相として、さまざまな不思議な現象が現されるのです。<本文 p82の経文を参照>

斉藤: そのことが序品の最後、第三の部分で明かされていきます。釈尊は諸々の不思議な現象をなぜ現したのか —- 皆の驚きと疑問を代表して弥勒菩薩が問い、文殊師利菩薩が答えます。
そのなかで、文殊は過去世の体験を語ります。かつて日月燈明仏という過去仏が、同じような瑞相を示して法華経を説いた。だから今の釈尊も、きっとこれから法華経を説くだろうと。