投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月13日(土)08時12分6秒     通報
§序品§(1)
■ 如是我聞 —- 師弟不二の鼓動

斉藤: 先日、西夏語「法華経」のマイクロフィルムが、池田先生のもとへ届けられました。 <ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクトペテルブルク支部から>
今回が世界初公開で、多くの学者・研究者が待望していた貴重な資料だとうかがいました。

名誉会長: 光栄なことです。
東洋哲学研究所の創立者として、両研究所の学術協力の発展を心から念願しています。
西夏は、十一世紀から十三世紀にかけて、中国の西北部に栄えた仏教国です。わずか二百年ほどの問に、独自の文字を開発し、多くの経典を翻訳しました。
贈られた西夏語「法華経」のもとになったのは、私たちも親しんでいる鳩摩羅什の漢訳です。それに西夏の地域には、仏教美術で有名な敦煌もあった。

須田: なにか、近しいものを感じますね。西夏の人々は、どんなふうに法華経を読み、仏法を学んだのだろうかと。

遠藤: 西夏語に、こんな格言があるそうです。
「智者はおだやかに言い、人を伏す
黄河はゆるやかに往き、人をのせる」
(西田龍雄著『西夏文字の話』、大修館書店)

斉藤:「おだやかに」とは、表面的な慇懃さのことではありませんね。

名誉会長: 人間に向かって開かれ、人を思いやる心。人を包み込む大きさ、温かさ。かりに言葉の内容は厳しくとも、それが「おだやかさ」でしょう。
智慧ある人は、明快に、道理を尽くして語る。だから人々は納得する。あたかも黄河が滔々と流れ、多くの人々を安らかに運んでいくように —- こんな意味になるだろうか。
西夏人は、きっと聡明で、開放的で、誇り高い人々だったにちがいない。信念のない、陥れんがための言論に左右されがちな日本人への警鐘ともとれます。
さあ、私たちの「法華経の旅」も、“黄河”のごとく滔々と、前へ進まなければ。いよいよこれから「序品」に入っていこう。
────────────────────────────────────────
序品から
「今仏世尊、大法を説き、大法の雨を雨し、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん。 —- 衆生をして、咸く一切世間の難信の法を聞知することを得せしめんと欲するが故に、斯の瑞を現じたもうならん」  (法華経 p137)

今、仏・世尊は、偉大なる法を説き、偉大なる法の雨を降らし、偉大なる法の貝を吹き、偉大なる法の太鼓を撃ち鳴らし、偉大なる法の意義を述べようとされているのであろう。 —- 世間のすべての人々にとって信じがたい法を、あらゆる衆生が聞いて知ることができるようにさせたいと思うゆえに、このような瑞相を現されたのであろう。
────────────────────────────────────────
斉藤: はい。法華経の“幕開けの章”となるのが序品(第一章)です。内容は、大きく三つに分けられます。
第一の部分では、冒頭に「如是我聞(是の如きを、我聞きき)」の句があり、続いて、法華経の説法の場所となる王舎城の霊鷲山に、たくさんの衆生が集まっていることが紹介されます。

須田: 「如是我聞」とは「この通りに私は聞いた」という意味で、ほとんどの経典の冒頭に置かれている“決まり文句”ですね。

名誉会長: その通りだが、法華経の場合、「聞く」ということが重要な意味をもち、経典全体にわたって強調されている。だから「如是我聞」も、型通りの言葉ではあっても、他経よりも一段と深い意義がある。大聖人の仏法にも深く関係する重要な点です。