投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月12日(金)18時49分16秒     通報
斉藤: 実は、私も四年前、第一回の青年文化訪中団の一員として、天台山に行かせていただきました。

名誉会長: 大聖人が「天台山に竜門と申す所あり其の滝百丈なり」(御書 p1077)と述べられたところだね。

斉藤: はい。石梁瀑布といって、滝の途中に石橋がかかっているのですが、下から仰ぐと、まさに竜が石の門をくぐって登っていく姿に似ています。
その近くにある古跡に、趙樸初会長が書かれた額が掲げられていたのです。
そこには「法乳千秋」とありました。鮮やかな筆跡から、“仏法の滋養が、いつまでも民衆を潤し、育んでいくように”との願いが伝わってくるようでした。

名誉会長: 会長は何度も語っておられた。
「仏教とは本来、民衆と結びついたものです。それゆえに人間のなかに、衆生のなかに入っていくことが正しい」
そして「私が日本を訪問したとき、皆さん方の文化祭の映画を見せていただきましたが、そこに躍動する人間の姿は、まさしく皆さん方が、衆生のなかで活躍している証拠であると感銘を深くしました」と。
在家である学会員の姿に、“人間のなかに入っていく”という仏法本来の精神を見ておられる。昨年(一九九四年)、学会の代表が表敬訪問したときも、変わらぬ友好の思いを語ってくださいました。ともあれ、二十一世紀の宗教は、民衆が自分で考え、自分で賢明に生き方を決める「自立」の智慧を与えるものでなければならないでしょう。

須田: 宗教は「民衆を、自分の考えをもたない幼児的な状態に押しこめておこうとする傾向」を乗り越えねばならない —- 。
こう主張されたのが、池田先生と会われたハーバード大学のコックス博士です(聖教新聞一九九五年二月二十八日付「二十一世紀の宗教を考える —- 識者の声」)。
また博士は『民衆宗教の時代』という著作で、こう強調されました。
「究極的分析において宗教の本当の担い手は、いつも一般民衆である」(野村耕三・武邦保訳、新教出版社)

名誉会長: コックス博士は、マーティン・ルーサー・キング氏(公民権運動の指導者)と学友であった。パークス女史の“勇気の「ノー」”から始まったバス・ボイコット運動のさなかに、初めて二人は出会われたようだ。

遠藤: 同じバプテスト教会に所属し、キング氏が暗殺されるまで十二年間、非暴力の同志として戦われたともうかがいました。一緒に牢に入ったこともあると。

名誉会長: 初めて創価大学で語り合ったときの、コックス博士の言葉が忘れられません(九二年五月二日)。
「創価学会が根幹としている仏法の思想は、キングがそのために生き、そのために死んだ『理想』と、軌を一にしています。またその理念、価値体系は、私自身が人生の中で達成したいと願っている目標でもあります」

斉藤: 博士は、キリストの教えを学んだ方です。宗教は異なるのに、これほどまでに仏法と響き合う。
「偏見」の人か、「正見」の人かを、宗派によって、教条的に見ることはできませんね。

名誉会長: “仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある”と、大聖人は述べられている。たとえ法華経に出あっても、偏見をもって、法華経の真実の素晴らしさを分かろうとしない者は、これら仏教以外の賢人・聖人に劣るのであると(御書 p242)
また「法華を識る者は世法を得可きか」(御書 p254)と大聖人は仰せです。「法華経の智慧」とは、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧です。そうでなければ仏法の智慧とは言えない。開いて言えば、民衆を幸せにする智慧は、すべて「法華経の智慧」であるとさえ言えるのではないだろうか。
大聖人は、民衆を苦しめた悪王を討って世を治めた周の太公望や前漢の張良などについて、こう述べられています。
「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(御書 p1466)
仏教が中国に渡る以前であっても、これらの人々は仏法の智慧をもって民衆を幸せにしたのだと。
「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くものです。
赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか —- その意識や力を絶えず湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり「二十一世紀の宗教」であるはずだ。それが法華経の魂です。
民衆の詩人、ホイットマンは、うたいました。
「いったいあなたは自分のことをどんなふうに思っていたのか、/自分自身を劣ったやつだとそれではあなたが思っていたのか、/自分より大統領のほうがえらく、金持ちのほうが裕福だと、/あるいは教育のあるほうが聡明だと、思っていたのはあなたなのか」(「仕事を賛える歌」、『草の葉』、鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)
「わたしが手を変え品を変えして君に分らせたいと願っているのは、男であれ女であれ神と変わらぬ存在だということ以外の何であろうか、/たとい神だとて『君自身』以上に神聖ではないということ以外に」何であろうか —- と。(「創造のための法則」、同)
「君自身」とは「生命」と言ってもよいでしよう。これはまさに仏法であり、法華経の世界です。
“あなた以上に尊いものはないのです” —- 法華経は民衆の一人一人に、こう呼びかけているのです。