投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月12日(金)14時11分24秒     通報
須田: 仏法が民衆の言葉で語られたことは、法華経にも、あてはまります。
法華経のサンスクリットの写本は、現代に数多く残っているわけですが、これらは、それぞれ各地域の俗語的要素を含んだスタイルで書かれているというのです。
経典は、最初から文字で書かれたのではなく、口伝えに広まったとされています。人から人へ、時を超え、国を超えて、伝わっていくうちに、その地その時の民衆の間で、独自の表現が加味され、個性豊かな多くの写本が形成されたのではないでしょうか。

遠藤: 民衆性といえば、「法師」という言葉もそうです。
法華経では、釈尊滅後に法華経を弘通する人を「法師」と呼んでいます。法師というと、普通は出家のように思われますが、「法を説く者」という意味で、出家・在家の両方を含んだ言葉です。
この法師に、仏が「善男子、善女人」と呼び掛けています。

須田:「法師」は、言葉の起源からいうと、むしろ在家者を指しているという説もあります。
サンスクリットでは「ダルマ・バーナカ」といい、「ダルマ」は「法」です。「バーナカ」というのは「経典を暗誦し、誦する者」という意味で、ある経典(大事経など)では舞踏家、楽器演奏者などとともに音楽家の一種とされています。出家仏教である当時の小乗仏教教団では伎楽の演奏や歌舞の鑑賞を禁じられていますから、「バーナカ」は小乗仏教の範疇には入らない在家者であると考えられています(塚本啓祥「インド社会と法華経の交渉」、『法華経の思想と文化』、平楽寺書店)。

斉藤: 仏教には出家・在家の区別のあることが、大前提のように考えられている傾向があります。特に日本では、仏教ヒいえば僧侶が担うもの、という先入観が強い。在家は僧侶に布施をして拝んでもらう —- それが仏教だと考えられています。
しかし、僧俗の区別は本来、仏教が成立した当時のインド社会の文化状況を反映したもので、仏教の教理に基づく本質的なものではないことが明らかになっています。
例えば次のような仏教学者の指摘があります。
「サンガの形成に当っても、サンガのめざす究極目的に対しては同一であったが、出家道と在家道とを二つに分けたことは、全くブッダがその中に生活した当時の時代思潮に順じたからに外ならない」(早島鏡正『初期仏教と社会生活』、岩波書店)

遠藤: 堀日亨上人も「僧俗と両様に区別することは、古今を通しての世界悉檀にしばらく準ずるものであって、あるいはかならずしも適確の区分でもなかろう」(『富士日日興上人詳伝』)といわれています。
僧俗の区分は時代・社会によっては的確な区分ではなくなる場合もあるということです。

須田: 在家者に宗教に関する専門的な知識がなく、専門家としての聖職者に依存せざるを得ない時代には僧俗の区別も意味があったかもしれません。しかし現代は、知識・教育が社会全体に一般化し、出家が独占的な権威を主張できる時代ではありません。

斉藤: 出家と在家、聖職者と信徒という区分は、「実体」ではなく「働き」として、「身分」ではなく「役割」としてとらえるべきではないかと思います。

名誉会長: 創価学会においては“身分としての聖職者”は存在しない。教義の研鑚はもちろん、布教も儀式の執行も、社会に根差した在家者である会員が一切を担っている。民衆が担う宗教です。
牧口初代会長は「信者ではなく行者であれ」と叫ばれたが、その通りの行動をしています。一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団の在り方では、二十一世紀を目前にした現代社会にはとうてい適応できないことは確かでしょう。

遠藤: 聖職者中心の行き方をとってきたカトリックでも、現在は信徒に大幅な権限を認め、その意見が教団全体に反映できるようになっているようです。信徒を尊重し、その役割を認めていくことが、引き返すことのできない、宗教の方向性と考えられます。また、日本のバプテスト連盟に属している教会が、牧師制を廃止しました。そのことをとらえて、ある神学博士は、こう述べています。二十五年ほど前のことです。
「牧師制度の中に座して、信徒をとおして間接にしか現実にふれない牧師は自ら社会の矛盾や動きにぶつかろうとしない —- 人々が日常の生活の中で担っている不安や苦悩に直接にふれることもないところでつくられる説教が人々の心にふれえないのも当然である。
しかも、その説教には反論も許されない。このような牧師の権威に従い、精神的に依存してしか生きられないキリスト教徒からは、社会を動かしうるような信仰は生まれてこない」(熊沢義宣『明日の神学と教会』、日本基督教団出版局)
その後、聖職者中心でなく、信徒中心を掲げる「在家キリスト教」という考え方も、聖職者の側から提起されています。

名誉会長: 社会で現実と格闘している人間にしか、社会で生きる人々の心は分からない。宗教が、本気で民衆のなかへ開いていこうとすれば、一部の特権階級中心ではなく、民衆中心を志向するのは、必然の流れではないだろうか。

須田: 「出家は不可欠か」。中国仏教協会の趙樸初会長は語られています。
結論として「仏法の因縁と衆生利益の因縁を保てば、出家してもしなくてもよいのです」と。(『仏教入門』、圓輝原訳、趙樸初先生著作刊行会監訳、法藏館)
また「(僧侶は)人にかわって福を祈り災をはらったり、神にかわって福をまねいたり罪を免がれさせることもできません」「歴史的にみれば、仏教がもっとも隆盛したのは、僧侶が一ばん多かった時代ではありません。僧侶の多すぎた時代は、むしろ仏教が衰退した時でした」(同)。
信徒が自分の幸福や安穏を、僧侶に代わりに拝んでもらっても意味がない。僧侶が多いことは、かえって仏法の発展にマイナスになる。仏法をたもち、それを人々に教えていくという実践があれば、必ずしも出家する必要はないのだと。

名誉会長: 趙樸初会長は、第一次訪中(一九七四年)以来の友人です。著名な書道家であり、中国人民政治協商会議の全国委員会副主席でもあられる。
中国で、東京で、法華経をめぐって何時問も語り合いました。法華経の文々句々を掌にされている方で、「爾時世尊」と、こちらが言うと、会長から「従三昧」と返ってくる。