投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月12日(金)07時11分48秒     通報
斉藤:「釈尊の伝道宣言」と呼ばれるある経文に「人々の幸福のために、利益のために、安楽のために」という釈尊の言葉があります(律蔵・大品)。
サンスクリット(古代インドの言語)の法華経では、仏の「一大事因縁」を明かすところで、全く同じ言葉が何個所も出てきます。簡素を好む羅什三蔵の漢訳では「衆生を饒益し安楽ならしめたもう所多き」(法華経 p169)という一句にまとめられています。つまり、法華経は、すべての人々の真の幸福と安楽のために説かれたのであると。

名誉会長: 大聖人は「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(御書 p1443)と仰せられている。
だれもが等しく、成仏の可能性をもっている。だれもが必ず、絶対の幸福境涯を満喫していける —- これが法華経の教えなのです。
この民衆性という点で注目したいのは、釈尊が、どんな言語で仏法を説いたかです。
それは、マガダ語という“民衆の日常語”だったと言われているね。

遠藤: はい。当時、正統のバラモン教では「聖典は、神聖な言語であるヴェーダ語でしか伝えてはならない」とされていました。そしてヴェーダ語は上流の知識階級でだけ用いられ、カースト最下層の人々や、カースト以外の不可触民には説き聞かせてはならないというのが、昔からの風習だったそうです。

須田: そこで、こんなことを釈尊に言う弟子がいました。
「尊い立派な教えを、民衆の俗語で語られたのでは、仏教の尊厳に傷がつきます。今後はバラモン教の聖典のように、格調の高いヴェーダ語で説くようにしてください」
この弟子とは、バラモン出身で教養のある二人の兄弟です。釈尊の教えに感動して出家した僧でした。
「とんでもないことだ!」。釈尊は、この申し出を一蹴します。そして、もし仏法をヴェーダ語で語る者があれば、厳罰に処するとまで言って徹底させたといいます。

名誉会長: 階層を問わず、あらゆる人々に仏法を伝えたい —- 釈尊の気迫が伝わってくる話だね。
大聖人も、在家の信徒に分かりやすいように、ひらがなでお手紙を書かれた。それを「恥辱」であるとして、焼いたり、漉きかえしにしたりした高僧がいたことは有名な事実です。

遠藤: 五老僧ですね。いずれも大聖人に近しい弟子でした。でありながら、その五人が、いかに大聖人のお心から離れていたか。日興上人は「富士一跡門徒存知の事」に書き残されています(御書 p1604)。
そして広宣流布の時には仮名文字の御書を各国の言葉に訳して全世界に広めるべきだと述べられています。(御書 p1613)、五人所破抄)

名誉会長: その日興上人の願いを実現しているのが学会です。
師の教えを「知っている」から偉いのではない。「何のために」知っているかです。
「師の教えは素晴らしい」とは、だれでも言える。「だから、何としても人々に伝えていくのだ」 —- これが日興上人であられる。「だから、それを知っている自分はすごいのだ」 —- これが五老僧ではなかっただろうか。
一見、同じように師匠を尊敬しているかに見えて、内実は“天地・水火”の違いです。ここを見誤ってはいけない。
大乗仏教は、複雑な戒律で縛らない。人間の自由、自律を尊重します。しかし、ひとたび「民衆」という鏡に照らすとき、それは、極めて厳格なリーダーの規範となる。“いいかげん”は許されない。

須田: 法華経でも腐敗・堕落した宗教者・僧侶を厳しく批判しています。例えば、「三類の強敵」を説いた勧持品の二十行の偈がそれです。そこでは、いかにも悟りを得たかのような姿をとりながら、欲望の追求に走る僧侶の姿が示されています。

遠藤: 釈尊滅後百年ごろのアショカ王が残した碑文に、“堕落した僧侶は教団から追放せよ”と刻まれているのは有名です。

名誉会長: 釈尊滅後まもなく、僧侶の堕落が始まっているという事実を、厳粛に受け止めねばならない。宗教は、リーダーが自己を見つめることを忘れると、自らが権威化し、民衆から遊離していく危険を常にもっている。