投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月11日(木)21時27分19秒     通報
遠藤: “女性を差別しない”といえば、法華経を含めて大乗経典には、しばしば「善男子・善女人」という言葉が用いられています。これは元来、良家の男子・女子という意味で、在家の男女を示す言葉です。善女人を善男子と並んで重視したことは、大乗教団には、たくさんの女性信徒が活躍していたことを示しています。

名誉会長: そうだろうね。今の学会婦人部の姿を見ればうなずける。
ただし、法華経の「善男子・善女人」は、いわゆる「出家に対する在家」という二分法的な考え方に立った在家ではなく、出家・在家という相対を超えたものではないだろうか。
むしろ仏と同じ仏道、つまり人間自立の道、生命勝利の道を歩むことを「決意した人」、その意味で「善き人」という意味あいが強いのではないかと感じられる。「善」は“心根のよさ”をあらわしているのではないだろうか。

斉藤: そうだと思います。特に釈尊滅後における経典の受持・弘通を勧める個所では、常に「善男子・善女人」と呼び掛けられています。在家・出家を問わず、「決意した人」でなければ、滅後における法華経受持・弘通という難事を担うことはできません。

名誉会長: 法華経そのものが、民衆に開かれた経典であった。それは、法華経の担い手たちが、民衆の中へ入って説いたからこそ生き続けたと言えるのだろう。

斉藤: そこでここでは「法華経はだれのために説かれたのか」というテーマで、法華経が「民衆のための経典」であることを浮き彫りにしていきたいと思います。

名誉会長: 法華経の本質を知る上で大変に重要なテーマです。日蓮大聖人も観心本尊抄や法華取要抄で論じておられる。

遠藤: 法華経で、釈尊が法を説いている直接の相手は、例えば前半(迹門)の中心的部分である方便品(第二章)では声聞の舎利弗であり、後半(本門)の中心的部分である寿量品(第十六章)では弥勒菩薩です。しかし、重要なのは、そのような声聞や菩薩に対して説かれた法華経の教えが、全体として、だれのために説かれたのかということです。

須田: 大聖人は法華取要抄で、法華経は本門も迹門も“釈尊滅後の衆生のために”説かれたのであり、なかんずく“末法の衆生のため”であると結論されています。さらに、末法の中でも“大聖人御自身のために”説かれたと仰せです。

名誉会長: 「釈尊滅後の衆生のため」「末法の衆生のため」。ここに「一切衆生のため」という法華経の慈悲がこめられている。
法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。滅後の衆生、特に末法という濁世の衆生を救わなけれぼ、その理想は叶えられない。だから滅後の衆生のための教えを仏が説かないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です。
大聖人は法華経を身読され、すべての民衆を幸福にする法華経の秘法を、南無妙法蓮華経として顕し弘められた。だから、末法の中でも「大聖人御自身のために」法華経は説かれたと仰せなのです。
仏法が滅するとされる末法という時代に、一切衆生の幸福という法華経の理想を、どう実現するか —- その道を開いたのは、日蓮大聖人であられる。
この御自覚の上から、法華経は大聖人のために説かれたと仰せなのです。その意味で、法華経とは、大聖人が末法に御出現されることを「予言」した経典ということも可能となる。

須田: 滅後の衆生は関係ない、救わないというのでは無慈悲な仏になってしまいます。法華経の寿量品(第十六章)では明確に釈尊滅後の人類の救済について説いています。有名な「良医病子」の譬喩も、そのことを説いたものです。

遠藤: こう説かれています。良医である父親が留守の時に、子どもたちが毒を飲み、地を転げ回って苦しんでいた。そこで良医は、良薬を調合して与えたが、毒が深くまわって本心を失った子どもたちは飲もうとしなかった。
そこで良医は、その子どもたちを救うために一計を案じ、良薬を置き残して旅立ちます。そして旅先から使いをやって「父は死んだ」と伝えます。その悲しみのあまり、子どもたちは正気を取り戻し、良薬を飲んで救われるのです。
良医は仏、良医が旅立つのは仏の入滅を意味します。また、子どもたちは末法の衆生であり、良薬とは南無妙法蓮華経であり、使いとは地涌の菩薩であると大聖人は教えられています。つまり、仏の入滅後の衆生を救う良薬である南無妙法蓮華経が、寿量品に説かれているのです。

名誉会長: 仏とは自らの生命の真実を悟った人である。それは、とりもなおさず、あらゆる人の生命の真実を悟ったことでもあった。それが仏の智慧であり、法華経の智慧です。
その意味で、法華経がだれのために説かれたのかといえば、「すべての人間のため」であり、その「自立」のためです。そこには当然、僧俗、男女、貧富、貴賎、老若等、いかなる差別もありません。ひとえに「人間のため」「民衆のため」です。