2015年6月11日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 6月11日(木)07時30分51秒 通報 須田: 作品といえば、芸術の分野でも、現代アートの無機質的な美だけでなく、より生命的な美しさの志向へ、生命力の復活へという動きがあります。 例えば、「人工生命アート」という、細胞などの有機的な美しさをコンピューターで描こうとするもの。また「ヒーリング・アート」といって、患者をリラックスさせたり、治りたいという気持ちを起こさせたりする色彩や形を探るものです。 遠藤: 経済でも、モノの生産だけの観点から、生命の再生産、すなわち人間的価値の再生産へという志向性がみられます。 須田: 政治の分野でも、パワー・ポリティクスから、ノン・バイオレンス(非暴力)、ノー・キリング(不殺生)へと、つまり、力による政治ではなく、生命尊厳の政治へと模索が始まっています。 八六年のフィリピン革命、八九年のチリの民主化、チェコのビロード革命 —- いずれも無血のうちに成し遂げられました。課題は多いようですが、生命重視の基盤をつくりゆく希望が開けたと思います。 斉藤: これらの革命の推進者である、フィリピンのアキノ前大統領、チリのエイルウィン前大統領、チェコのハベル大統領の、いずれとも、池田先生は語り合われています。 名誉会長: 二十一世紀のキーワードは「生命」である。また「生命力」でしょう。 最近、ハベル大統領は、民主主義が人類に活力を与えるには、何が必要かと問いかけています。(九四年九月、米スタンフォード大学での講演「現代の政治状況としての文明」) 大統領は、今日の西側の「民主主義社会」には、「物質主義」があり、「あらゆる種類の精神性の否定」があると指摘しています。 更に「人間を超えたあらゆるものに対する尊大な侮辱」「常軌を逸した消費主義」「永遠性に対する信仰の欠如」等々があると。 しかし、政治的な見地から見て、「民主主義が人類の唯一の希望であり、私たちの生命の内奥にある性質と共鳴すれば、有益なインパクトを与えうる唯一のものである」。 ゆえに民主主義は、もっと広く人類に受け入れられねばならない。しかし、何かを忘れている。その「普遍的な共鳴が得られるはずの民主主義が忘れている次元とは何でしょうか」 —- 。 結論として大統領は、こう述べている。 「民主主義は、我々を超えるだけではなく、我々の内部と我々の間にも、非物質的な秩序に対する尊敬を回復させなければなりません」 「世界的な民主主義秩序の権威は、宇宙の権威が回復されなければ構築することはできません」 非物質的秩序とは、仏法の立場でいえば、生命的秩序といえるでしょう。そうした秩序への尊敬、宇宙の権威。これらが回復されねばならないと。 ハベル大統領が指摘されたように、今、世界は、「自由」でありながら「放縦」ではない、精神性の豊かな社会を模索しています。と同時に、その基盤となる確かな生命観、蘇生への智慧を求めています。政治家も、こうした智慧に、真撃に耳を傾けざるをえない時がきている。 斉藤: 「民主主義」と「生命観」といえば、ゴルバチョフ財団のツィプコ博士は、一九九五年の年頭に日本の新聞(北海道新聞、一月六日付夕刊)で述べています。 「今こそ、ソ連は完全に崩壊した」と。 「チェチェンの戦争は、ロシアの若い民主主義の敗北を意味するにとどまらない。あの戦争は、ロシアが道徳的に自己崩壊したことを意味している」 「孤立して、今後の予想もつかぬロシア連邦は、世界で認められ、人気を得ることはあるまい。世界が新民主ロシアの代わりに手にしたのは、人間の命の価値が非常に小さく、国内問題が戦車と大砲の力で解決される国、政府が誰も何も統制できない国であった。このロシアの袋小路からの出口を考えつくのは難しい。いったい、出口はあるのだろうか」と。 遠藤: この戦争で、たくさんの貴い命が失われました。駆り出された兵士たちのなかには、まだあどけなさの残る青少年たちも多かったといいます。出兵した息子が心配で、いてもたってもいられず、ロシアから戦地まで追いかけて行った母親もいたそうです。 名誉会長: どんな理由をつけようと、この世に“正しい戦争”なんかありません。絶対にない。苦しむのは、結局、庶民であり、家族であり、母親です。 私も、長兄(喜一)を戦争で亡くしました。昭和二十年一月十一日、ビルマで戦死。二十九歳の若さでした。その報が我が家に届いたのは、二年以上たってからのことです。 「喜一の夢を見たよ。大丈夫、大丈夫だ。必ず生きて帰ってくる、といって出ていった」。終戦後しばらく、母は何度も、うれしそうに話していました。何とか明るく振る舞おうとする気丈さが、かえって痛々しかった。 戦死の報を受け取り、一縷の望みが絶たれたときの母の後ろ姿。そして帰ってきた遺骨を抱きかかえるようにしていたその姿。私は永久に忘れることはできない。 ツィプコ博士の言葉に「人間の命の価値が小さい国」とあったが、人間を、「国家の目」で見るか、「生命の目」で見るかです。「国家の目」は、生命を権力のしもべとして利用しようとし、数や物に還元してしまう。「生命の目」は、相手を、かけがえのない無二の存在として慈しむ。 戸田先生の「仏とは生命なり」との悟達は、「生命こそ絶対にして最高の実在である」との宣言でもあった。人間の尊厳を失わしめる、あらゆる歪んだ「目」に対する挑戦の開始であったと思う。それこそ仏法の本源的な挑戦なのです。 遠藤: ツィブコ博士が指摘したロシアの「若い民主主義の敗北」も、「非物質的な秩序への尊敬」(ハベル大統領)すなわち「生命への尊敬」が欠落している悲劇でしょう。 須田: 「生命への尊敬」。これは、池田先生がトインビー博士と編まれた対談集の最後のテーマでもありました。 生命よりもイデオロギーを優先させる時代に終わりを告げなければならない、二十一世紀を「生命の世紀」としなければならないとの、並々ならぬ決意を感じました。 名誉会長: そう。まさにその「生命の世紀」への突破口を開かれたのが、戸田先生だったのです。そのお心を我が身に駆けめぐらせて、私は世界を回り「人間の尊厳」を訴え続けてきたのです。 先生の残された「生命論」が、どれほど先見に満ちた、一大哲理の結晶であるか。後世の歴史は証明するでしょう。 Tweet