投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月10日(水)19時21分0秒     通報
斉藤: “三重苦”で有名なヘレン・ケラー女史が、こう言っています。
「日々の空気の中に、私は雨のような空気のほとばしりを感じます。地球上と天上のすべてを結びつけている、みごとな絆が私にはわかります」(『生命の七つの謎』)
視覚・聴覚を失っても、彼女には大宇宙と小宇宙との交流が、はっきりと“見えていた”。そう思えてなりません。

名誉会長: 仏法は、五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)を説きます。もしかしたら彼女も、肉眼を超えた、研ぎ澄ました生命の眼で見ていたのかもしれない。
また逆に、生命は、そういう深い次元で迫ってこそ“見える”のではないだろうか。

須田: 近代科学も一種の“慧眼”かもしれませんが、科学の傾向性として、生命を種々の部品で構成された機械のように、とらえようとしました。また生命や人間を、肉体と精神、主体と客体という分離・対立するものに分けて、とらえようとしました。また、生命の働きを物質に還元して把握しようとしました。
しかし、こうした機械論、二元論、還元論では、生命の一側面は解明し得ても、ダイナミックな全体像は見えてこない。

斉藤: かえって人間や生命を「モノ」化し、生命と生命、生命と環境を対立的にとらえることが定着してしまった。環境破壊や人間による自然の支配を許す温床にさえなったとされていますね。

遠藤: そういった反省から、特に八〇年代以降、登場してきたのが、ニューサイエンス、エコロジーなどの流れです。
例えば、カプラの『タオ自然学』は、二元論や還元主義の超克を説き、現代物理学の最先端と、東洋思想の知恵の共通性を指摘しました。
ワトソンの『生命潮流』は、地球上の生物は個々ばらばらな存在ではなく、関係性の場のようなもののなかで、共生しているとしました。
ラブロックの『地球生命圏』は、地球自体が一個の巨大な生命体であるという「ガイア仮説」を提示しています。
こうしたなかで、それまで見落とされていた、自然との調和、他者との一体感、平等性、多様性といった価値が注目されだしました。

名誉会長: 「万物の相互依存性」 —- 仏法でいう「縁起」の考え方の一面に光が当てられてきたね。

斉藤: 生命現象を統一的にとらえようとしたゲーテの自然観も、再評価されているようです。たとえば、こんな言葉があります。
「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」と。(「日記・一八一二年」、フォン・ベルタランフィ著、長野敬・飯島衛共訳『生命』、みすず書房)

須田: 「モノ(物質)的な世界像から「コト(事象)」的な世界観への転換をいう人もいます。

名誉会長: 「コト」というのは「事象」「現象」であり、まさに「法」そのものです。世界を“諸物”としてではなく、“諸法”として、とらえ始めている。その“諸法”の実相(真実の姿)を説いたのが、法華経なのです。
今、このように、生命観、世界観をめぐつて、明らかに、パラダイム(考え方の枠組み)の大転換が見られる。
世界とは「生命」である —- 戸田先生の悟達への、一次元からの接近といえるでしょう。

遠藤: 「モノ」的科学の最先端とも言える分野からも、「コト」的な世界観・生命観を見つめざるをえなくなってきています。
例えば量子力学。物理学者の中には、究極の粒子を確定しようと努力し続けている人もいるわけですが、素粒子は、どうしても「場」の状態としてしかとらえられない。
また分子生物学のDNA(デオキシリボ核酸」研究。これまではDNAの遺伝情報を、一部分一部分、切り取って、その働きを考察していました。どちらかというと「物質」としての解明でした。
その基本は変わらないかもしれませんが、最近は、ヒトであればヒトのDNAの全体(ゲノム)を解明し、そこに刻まれている「地球生命の物語」を読み解こうとしています。地球に生命が誕生して以来の、生命間の交流、生命の環境への対応の歴史を追うことができるというのです。
「モノ」に即しながらも、「コト」へ「いのち」へ、「物」から「物語」ヘ —- という指向性が出てきている。ある人は、DNAを「経典かバイブルのようなもの」とさえ言っています。

名誉会長: 時代は急速に動いている。
DNAに関して大事な視点は、生命それ自体がDNAをつくっていったのであって、DNAが生命をつくったのではないということです。
大宇宙即生命であり、生命即大宇宙です。生命それ自体が、作者であり、しかも、作品なのです。