投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月10日(水)14時05分14秒     通報
名誉会長: 戸田先生が、こうおっしゃったことがあった。
「我という名前をつけるけれど、我というのは宇宙のことなのだ。宇宙の生命と君らの生命と違うかというと、違うのは肉体と心であって、生命には変わりはない」
宇宙と人間を、どうしても別のものに考えがちだが、戸田先生は、どちらも生命であることに変わりはないと言われている。

須田: 戸田先生の「生命論」では、「宇宙自体が生命そのもの」であること、「生命とは宇宙とともに本有常住の存在」であることが論じられています。
そして「寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」「ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない」と。

遠藤: では、例えば、一本の大きな木があるとして、それを大宇宙とします。そこから葉や花が、たくさん出てくる。これが個々の生命のようなものである —- こう言えないでしょうか。

名誉会長: 同じような質問をした人がいてね(笑い)。戸田先生は、こう答えておられた。
「出たものというのではないのです。この水(卓上の茶碗)を大宇宙とするのです。風が吹いてここに波ができるでしょう。波の立ったそれが、われわれの生命なのです。また大宇宙の生命の動きの一種なのです。だから風がなくなれば、また元通りになってしまう」と。
海を大宇宙とするならば、現れては消え、消えては現れる波が、われわれの生命であると。

遠藤: 波と海は別々のものではない。波は海の働きの一つだということですね。

斉藤: そういえば、ある英国人が、こういうことを言っていたようです。
「宇宙と“人間たち”との関係は、大洋と“波”の関係と同じである。 —- ゆえに死として、あるいは空虚な空間とか無として見ているものは、たんに無限に波だつ人生という大洋の、波がしらと波がしらの間の谷にすぎない」
そして「宇宙から取り出されたような、切り離された“あなた”は存在しない」と。(アラン・ワッツの言葉。ガイ・マーチー著、吉松広延他訳『生命の七つの謎』、白揚社)

須田: 宇宙に溶けこんでいるということでしょうか。

名誉会長: そうも言えるかもしれない。
だが、戸田先生は「溶けこんでいるっていうより、宇宙の生命それ自体なのです。それ自体が変化を起こしているのだ」と言われているね。

遠藤: 生命を川の流れにたとえる人もいます。常に流れ、変化し続けていて、やがて海と一体になると。

名誉会長: なるほど。しかし、生命は、もっと奥の次元にあるものではないだろうか。
戸田先生も「変化をしていく、流れているように感じられる大もとのものなんだよ」とおっしゃっています。

「流れているものでもなければ、止まっているのでもない。虚空のごとし」と。それが生命の本質なのです。
無限の「大宇宙」でもあり、同時に無数の生命体イコール「小宇宙」でもある、ひとつの実在。ダイナミックに変転し続けながら、しかも永遠常住である巨大な生命。この宇宙生命ともいうべき厳たる実在を「仏」ともいい、「妙法」ともいう。万人は、この尊貴なる実在の当体である。
法華経は「諸法実相」と説く。「諸法」とは、すべての個々の生命事象である。その「実相」すなわち真実の相とは、宇宙生命そのものである。この不可思議の真理を、戸田先生は「仏とは生命なり」と表現されたのです。
これが分かれば、絶対に「殺」の心など起きるわけがない。何かを破壊することは、自分を破壊することになるからです。