投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月10日(水)07時01分19秒     通報
名誉会長: そう。しかも、戸田先生の「生命論」は、ただ「論」のための「論」ではありません。科学的な分析と総合を繰り返して出来たのでもない。かといって、科学にも道理にも反しない。
戸田先生ご自身の、真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底から汲み上げられたものです。これこそ「法華経の智慧」と言える。
ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。
この哲学を、そのまま実践に移すならば、そこから、無気力と苦悶の人生を、充実と喜びの人生へ転換しゆく、自己変革のドラマが始まる。
そこから、人類が強くなり、豊かになり、賢明になるための、あらゆる次元の革命の歯車が回り始めます。

斉藤: 「人間革命」「総体革命」ですね。

名誉会長: 「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。
私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある —- 無限向上の人間革命史を綴っている。また冬もあれば春もある —- 広宣流布の春秋のロマンを奏で、進んでいるのです。
ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」 —- 戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。
更に先生は「法華経は何を説かんとしたか」の思索を続けられ、地湧の菩薩として虚空会の儀式に参列している体験をされる。この意義については、後の章で述べることにしよう。

遠藤: かつて宗門が、戸田先生の「悟達」という表現に難くせをつけてきましたが、在家に、悟達されると、よほど都合が悪いのでしょう(笑い)。

斉藤: 仏法を信奉しながら、悟ったらいけないというのは、大学に入っても卒業してはいけないというようなものですね(笑い)。ねたみでしかない。

須田: 「仏とは生命」 —- 。「生命」という言葉には、科学的で、しかも温かみのある響きを感じます。

名誉会長: そこが実は、戸田先生の偉大なところです。
「仏」というと、人格的な面が表になる。それだけでは、どこか自分とかけ離れた存在というイメージが伴う。また「法」というと、法則とか現象とか、非人格的な面になる。
それだけだと、あまり温かみはない。本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。

斉藤: よく分かります。
しかし、三世の生命とか、永遠の生命とか、まだまだ知識としてしか理解できていないのではないかと思えるのですが。
生命というものは、具体的にどのように、把握すべきなのでしょうか。

名誉会長: 戸田先生は、よく言われていた。「三世の生命、永遠の生命といっても、だれも見たものはいないんだ」と(笑い)。
ただ、その輪郭だけでも、描き出すことは意味があると思う。みんなの持っているイメージを出し合ってみたらどうだろう。

須田: 一つには、次のような考え方もあります。自分のなかに「我」というものがある。死んでも、その「我」は、ずっと続く。この「我」が生命の実体であると。

名誉会長: なるほど。そうすると、死んだ後の「我」は、どこにあるんだろう。

須田: 霊魂のように、フワフワしたものではないとは思うのですが —- 。