投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月 9日(火)21時02分38秒     通報
遠藤: その無量義経の文には「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず緑に非ず自他に非ず —- 」と始まって“三十四の非ず”が繰り返されています(注)。
────────────────────────────────────────

無量義経徳行品には「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず縁に非ず自他に非ず 方に非ず円に非ず短長に非ず 出に非ず没に非ず生滅に非ず 造に非ず起に非ず為作に非ず 坐に非ず臥に非ず行住に非ず 動に非ず転に非ず閑静に非ず 進に非ず退に非ず安危に非ず 是に非ず非に非ず得失に非ず 彼に非ず此に非ず去来に非ず 青に非ず黄に非ず赤白に非ず 紅に非ず紫種種の色に非ず」と三十四の「非」を重ねて仏の身について述べられている。
────────────────────────────────────────
名誉会長: 「其の身」とは仏の身のことです。経文を読めば、そのことは分かる。しかし、その実体は分からない。
それは「非ず」という否定形を重ねてしか表現できない何かである。どんな「定義」をしても、そこから、はみ出してしまう面をもつ何かである。しかも、どんなに否定形を重ねても、それでもなお厳然と存在する実在である。
だからといって、それを単に言語表現を超えたものとか、不可思議なもの、空なるものとか言って、仏を超越的なものに祭り上げても、何も分かったことにはならない。戸田先生は「実感」としてつかみたかった。「体得」されたかった。空虚で観念的な理解では、決して満足されなかった。

斉藤: 当時のご心境は、戸田先生の小説『人間革命』の主人公、巌さんを通して描かれています。
「巌さんの眼鏡の底の眼は無量義経の徳行品第一を読んで行って、偈のところへくると、白い焔のように光って、最早、眼が読み進んでいるのではなく、頭で読んでいるのでもなく、彼はその一字一句へ逞しい身体を叩きつけているのだった」

名誉会長: まさに「身」で読もうとされたのです。
法華経では「一切衆生の成仏]を説く。しからば、その仏とはいかなる実在か。成仏とは何か。これは仏教全体の根幹にかかわる問題です。戸田先生は、この根本問題を深く思索され、追究されたのです。
そして、突如として戸田先生の脳裏に「生命」という言葉が浮かんだ。「仏とは生命なり」と読み切られた。
「生命」は有に非ず亦無に非ず
因に非ず縁に非ず自他に非ず
方に非ず円に非ず短長に非ず
—- 紅に非ず紫種種の色に非ず —- と。

遠藤: 戸田先生は、その時、心に叫ばれています。
「仏とは、生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」

斉藤: 戸田先生は、“実在として”つかまれたからこそ、「生命」という言葉で表現されたのですね。

名誉会長: そう。現代人にも分かる、平易で生きた言葉。しかも、深遠な仏法の真髄を表現し切った「一句万了」の一言です。
「生命」は、現に万人にそなわっている。だから万人が実感できる具体性がある。その意味でも、戸田先生の悟達は仏法を万人のものとしたのです。
また「生命」には多様性がある。豊かさ、闊達さがある。それでいて、法則的であり、一定のリズムがある。この「多様性の調和」を教えたのが一念三千です。その一念三千を体得したのが仏だ。
しかも「生命」には開放性がある。外界と交流し、物質やエネルギーや情報をたえず交換する開かれた存在である。それでいながら、自律性を保っているのが生命です。宇宙全体に開かれた開放性、そして調和ある自由、これが生命の特徴である。
仏の広大無辺の境涯とは、生命のこの自由、開放、調和を、最大限に実現した境涯だとも言える。
妙の三義には「開く」義、「円満」の義、「蘇生」の義がありますが、これこそ「生命」の特質です。そして「仏」の特質にほかならない。
ある意味で、仏典はすべて生命論です。天台の仏法は「己心の中に行ずる所の法門を説く(説己心中 所行法門)」(御書 p239)とされ、大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書 p563)と仰せになった。
ある時、戸田先生が、笑いながらおっしゃっていた言葉が忘れられない。
「『説己心中 所行法門』を色読できるなり」 —- この天台の確信が、身で分かるのだと。
その時、先生は言われた。
「大ちゃん、人生は悩まねばならぬ。悩んではじめて、信心もわかる、偉大な人になるのだ」。病魔と戦う私に、何とか生命力をつけようとされていた。私が二十七歳の時です。
感動して私は、日記にも書いた。けれども先生ご自身こそ衰弱が激しく、お体の具合が非常に悪い時だった。それでも先生は青年を、どう励ますか、どうしたら自分と同じ境涯にできるか、常に心を砕いておられた。

斉藤: 崇高なご境涯、崇高な師弟のお話だと思います。

名誉会長: ご自身の悟達後の境涯について戸田先生は、ある人に、こうも語っておられた。
「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ。なりたかったら、法華経のため、広宣流布のため、ちょっぴり牢屋に入ってみろ」
そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。

須田: 戸田先生の悟りは、単に観念の理解ではなく、生命そのものの変革だったのですね。

名誉会長: その通りです。仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。
また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会てす。
釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥の広大な世界を開いていった。
天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
華厳経では、心と仏と衆生は無作別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を諭した。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、御義口伝をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。
すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。

斉藤: その本体を、どのように人々に知らせていくか。ここに、先哲の苦闘があったのですね。