投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月 8日(月)07時15分26秒     通報
遠藤: 『夜と霧』(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)の著者として高名ですね。

名誉会長: 博士は「現代は、あらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。じつさい、ほんとうなら、若い世代にもっとも理想主義と熱情を求めなければならないのに、こんにちの世代、こんにちの青年には、もはやどのような理想像もないのです」と語られています。(V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』、山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
「生きる意味」を失ってしまった、というのだ。

遠藤: 強制収容所は、それこそ「人間の尊厳」も「生きる意味」も破壊し尽くされるような環境であった。それでも、「人間」として生き抜いた人もいたのですが、 —- 。
博士は、平和の時代になっても、別の意味で、目に見えない強制収容所が人類を取り巻いているのではないかと、示唆されているのでしょうか。

名誉会長: そうとも言えるだろう。
また、現代を支配している気分を一口で言うと、それは「無力感」だと言った人もいる。
ともあれ、だれもが、このままではいけないと思っている。しかし、政治も経済も環境の問題も、すべて自分の手の届かないところで決定され、動かされている。自分一人が何かしたところで、大きな機構の前に何ができようか —- この「無力感」が、更に事態を悪化させる悪循環をもたらしているのです。
この無力感の対極にあるのが、法華経の一念三千の哲学であり、実践なのです。
一人の人間の「一念」が一切を変えていくというのですから、一人の人間の可能性と尊貴さを、極限まで教えた思想とも言えるでしょう。

斉藤: 人間は、無力で哀れな存在ではないことを強調しなければなりません。
池田先生と親交のあるロシアのヤコブレフ氏は「ペレストロイカの設計者」と言われる方ですが、「ロシアに明日はあるか」を展望されて、こう言われています。
「今日、最もクールな科学的合理主義ですらも、人間一人一人の価値を認めない限り、人類そのものが破滅するということを我々に教えている」と。(A・ヤコブレフ『歴史の幻影』、月出皎司訳、日本経済新聞社)

名誉会長: ヤコブレフ氏とは、一九九四年も、モスクワでお会いしました。<「レオナルド国際賞」の受賞式で。ヤコブレフ氏は「池田博士! 我が国も、池田博士の行動に見習って、人道的な、また“社会に尽くしていこう”とする広範な動きが、そのような人々が登場してきています」とあいさつした>
氏は、真剣に「ロシアのルネサンス」を求めておられる。その核心にあるのは、「人間的価値の復権」です。
「二〇世紀の残りの数年は、我々が一九世紀半ば以来知っている共産主義の幻想が完璧に破綻する時になるだろう。そうなるに違いない。と同時に、この数年間に、本当の人間的価値の復権が起こるだろう。人間的価値は、これまで『社会的実践』の結果として、誤解、嘘、中傷によって圧倒され尽くしてきたが、やっとそれから解き放たれる時がきたのだ。現在と未来に考えをめぐらせば、今日ぶつかっている危機のなかで最大のものは精神的理想の分野にあるという結論に達するに違いない」(『歴史の幻影』)と。

斉藤: この「人間的価値」を、最も壮大にして崇高に、うたいあげたのが法華経と言えますね。

名誉会長: そうです。それが私どもの確信です。
かつて神聖ローマ帝国時代に「大空位時代」(1254または56年~1273年)があった。皇帝が実質的に空位だった時代です。ちょうど日蓮大聖人の御在世当時に当たる。
冷戦後の今は、「哲学の大空位時代」ともいえる。指導的哲学がなくなってしまった。ゆえに、今こそ私は、古来「経の王」といわれる法華経を語りたいのです。

遠藤: 「諸経の王」「諸経の皇帝」ですね。「大空位時代」は、まさに現実だと思います。共産主義への信仰はなくなりましたが、かといって「自由」が人を幸福にしているのかは疑問です。
かえって拝金主義、物質主義、快楽主義といった風潮が、全世界的に広まってしまったといえるかもしれません。

須田: 同感です。池田先生が会見されたチェコのハベル大統領は、共産主義の抑圧と戦った勇士として有名ですが、その後の社会の変化に、警告を発しています。
「われわれは異様な事態の目撃者となった。なるほど社会は自由を手に入れた。だが、ある意味で、社会は鎖に繋がれていたときより堕落している」と。(「夏の瞑想」、アンドルー・ナゴースキー『新しい東欧』、工藤幸雄監訳、共同通信社)
そして「道義的にタガの緩んだ社会に自由が取り戻されると —- 思いつく限りのあらゆる悪徳が、目も眩むばかりにどうと噴き出した」(同)と言っています。