投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月 8日(月)12時50分55秒     通報
斉藤: 極端なナショナリズムも、その一つですね。「統合ドイツ」でも、ネオナチのような動きは、ごく一部にしても、民族的な「排除」の声が高まっているようです。
「ベルリンの壁」を、今度はドイツ全土を包囲するように、再び建設すべきだという主張さえ聞かれる昨今です。

名誉会長: その通りである。民族主義の問題は、根が深い。
民族主義を煽って、政治的、経済的、宗教的に利用しようという動きが絶えないし、何より人間の「心」の欲求に関わっているから、その深刻さは当然なことだ。
つまり、自分は「どこから来て」「どこへ行くのか」というアイデンティティー(自己を支える帰属意識)への欲求が、民族主義の根っこにはあると考えられる。
思想、哲学が空白状態であるから、アイデンティティーを民族に求める。思想の“真空”には耐えられないからです。
だからこそ宗教が大切なのですが、宗教がむしろ「分断」を助長しているのが実情ともなっている。

遠藤: 国連の明石康氏は、旧ユーゴ紛争の解決に当たっている担当者ですが、ある宗教者会議で、こう語られています。
「旧ユーゴでは、宗教は偏狭な民族主義者に誤用、乱用されている。宗教者がしっかりしていて、こうなる前に立ち上がっていたら、それは避けられたろう」と。

名誉会長: 明石氏は大切な友人です。旧ユーゴの戦乱は、本当に悲惨だ。現地の人々を思うと、胸もつぶれる思いです。
まさに「この世の地獄」となっている。ある文学者に、ボスニアの詩人は言ったという。「今日のサラエヴォで書くことができるのは死亡記事だけだ」と。(フアン・ゴイティソーロ『サラエヴォ・ノート』、山道佳子訳、みすず書房)

斉藤: カトリックを信仰するクロアチアの兵士がセルビア正教徒であるセルビア軍の捕虜になると、正教流に「三本指で十字を切れ」と強制されたといいます。

須田: カトリックでは、二本指で十字を切るそうですね。

斉藤: ええ。その命令を拒否すると、三本でしか十字を切れないように、指に針金を入れられた、と聞いたことがあります。
それが事実かどうかは別にして、そういう捕虜の写真が、クロアチアの新聞に載るわけです。それを見た人は当然、セルビア人への憎しみをかきたてられます。(堅達京子・稲川英二『失われた思春期』、径書房)

名誉会長: 宗教は、使い方によっては“悪魔”となる。人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断を煽っている。これほどの不幸はない。
どこまでも「人間のための宗教」が根本とならねばならない。「宗教のための人間」では絶対にない。「二十一世紀の宗教」の、これは根本原則です。

遠藤: モスクワ大学前総長のログノフ博士は、池田先生に学んだこととして、「人間のための社会」であって「社会のための人間」ではないという信念を挙げておられます。
かつてのソビエト社会で、これは衝撃的な思想であった、と。まさに「人間的価値の復権」です。

名誉会長: これが法華経の法理だ。これが仏法の人間主義なのです。
サラエヴォのある少女は、戦争が始まってから一年半、家から出ることもできず、爆撃が続くなか、自分の部屋でさえ危険で入れなかったという。トイレと廊下が比較的安全なので、そこで一ヵ月も暮らした。水もない。電気もない。周りは爆撃でバラバラになった人体が吹きとび、冬はマイナス十七度のなかで薪もストーブもない。コップの水も凍っている。手も顔も洗えない。水くみ場にいくと狙撃される危険がある —- 。
また、同じような状況のなかで、ある十七歳の少年は語っています。
「ぼくにはいろんな夢があったけど、戦争がすべてを奪ってしまった」「でも、いつになるかわからないけれど、今後、人を愛せるのなら、そういう能力がまだ残っているのなら、誰かを愛したいと思う。一番大切なことは、何が起ころうとも『人間』でいることだ。『人間』であり続けることだ —- 」(『失われた思春期』)
二十一世紀といっても、「平和」が大前提です。平和なしには、一切が不毛です。ゆえに二十一世紀の宗教は、平和を生み出す宗教でなければならない。
そして「平和学の父」ガルトゥング博士が結論されたように、仏教こそ最も平和的な宗教なのです。その仏教の骨髄が法華経です。