投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月28日(木)21時02分51秒     通報
信心が無ければ御本尊に関して論じていくことは出来ません。歴史的文献だけで、御本尊のことを決定することは危険であり、過ちの元となります。あくまでも一つの角度として採用し、論じていく必要があるでしょう。
教義変更というルビコンの河を渡ってしまった創価学会は、軽々に引き返すことはできない状況であり、何がなんでも正当化していくしか選択肢がありません。無茶な拙速改正は、自分たちの首を絞め、有識者や、学者の言を借りなくてはならない事態へと追い込んでしまっています。懸念の声に耳をかさず、強行突破したツケは、支払わなければなりません。

「先生存命中の改正は英断である」という声もあります。先生がいなければ、もっと混乱が起き、大変なことになっていたと。なんとも情けない話ではないですか。一体ここのどこに信心があるというのだろうか。師を盾にしているだけであり、弟子としての責任も誇りもない。「拙速」自体が信心のない証拠であり、そのズレが今の事態を招いたものであると考えます。

御本尊の問題は、信仰の根幹であるが故に、誤解されても駄目なのです。変更するなら誤解や勘違いを生まないように周到な準備と説明が必要となります。そうでなければ純粋に御本尊を信じている会員の信心を壊してしまいかねない。それは、誤解レベルでも同じであり、誤解されただけで負けなのです。その責任感と覚悟がなければ、容易に進めてはいけない事項です。それが信心というものです。

三代会長の御本尊に関する指導は、「信心」を根底とされています。それがわからない人間には、人師論師レベルの言でしかないように、映ってしまうのかもしれません。だからこそ、「時代の変化」ということで簡単に覆してしまう。物は言い様なので、どのような展開になろうとも、それなりの論理は構成できますが、果たしてそこに信心はあるのか。今、ここが問われているのではないでしょうか。