投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月28日(木)14時16分32秒     通報
「青年部も全面的に賛成です!」

この言葉が、今の創価学会の体質を物語っていると思います。全面的という一方的な言葉の中には、マイノリティ(少数派)を大事にしない、排除していくという姿勢が窺われる。そもそも宗教というのは、どれだけマイノリティを大事にできるかであり、それが「一人の人を大切に」ということでもあります。御本尊については、一人ひとりの思いも考え方も違うのに、全面的とは恐れ入ったものです。人の心に土足で踏み込むようなことであり、一言でいうと「配慮」がない。こんな姿勢では、到底世界宗教と言うことはできない。

体制側の人間というのは、体制を守ることが責務であり、立場上賛成せねばならないのでしょうが、それでは54年の二の舞になりかねない。怪文書という見解も、よくよく調べた上での結論なのか、それとも本部の方針だから、それに合わせているだけなのか。そのあたりも、一度立ち止まって考えていただきたいものである。

悪との戦いは無傷で済むことはほとんどないでしょう。ある意味、肉を切らして骨を断つ行為でもあります。肉を切らさないで、スマートに勝てるほど甘くはないというのが前提であり、常に問われるのはその「覚悟」なのです。悪を放置することは、根元から腐っていくことを意味し、やがて全滅します。それを食い止めるためには肉を切らせることも必要なのです。しかし、肉を切らせたとしても、致命傷にはなりませんし、治療も可能です。今、大事なことは、悪を容認する学会から、「悪と戦うのが当たり前」の学会へと進化を遂げることであります。そのために、内部の悪い部分を晒し、糾弾しているわけです。

悪を救うのは、厳父の信心でなければならず、慈母の信心では逆に増長させてしまう。やさしい慈母の信心は肉を切らせることはありませんが、悪の骨を断つこともできません。これ、無慈悲であります。慈母では提婆達多は救えない。厳父の如き、厳しい呵責を加えてこそ、悪人成仏はあるわけです。内部の悪にこそ最も厳しく対処してこそ、組織は護られ、法も弘まっていくのです。それに対し、「内部なのだから」「同志なのだから」「団結が乱れる」等、慈母の信心は、悪と戦えない信心ということなのです。やさしさが慈悲魔となり、悪を喜ばせてしまう。つまり、厳父の信心と、慈母の信心の両方が兼ね具わってこそ、世界宗教へと飛躍できるということです