投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月22日(金)17時36分7秒     通報
池田大作全集71巻より
墨田、荒川区記念支部長会 (1988年10月12日)②

「厚田」といえば、私にとっても大変懐かしい。戸田先生の故郷は、弟子である私の故郷とも思えるし、若き日に、戸田先生にご一緒し、忘れ得ぬ思い出を刻んだ地でもあるからである。

「厚田」の語源には諸説があり、決定的なものはないようだ。その語源について子母沢氏は、「南へ向いた丘」という文章のなかで、「アツ」はアイヌ語で「荒い」または「荒れる」の意味で、「アツタ」は「荒海」とか「海荒の浜」の意味、と聞いたと述べている。

思えば、牧口先生の出身も、新潟県柏崎市の「荒浜」であった。そして、戸田先生の故郷も″荒海″の意をもつ「厚田」。

荒れ狂う波浪に敢然と挑み続けられた牧口先生、戸田先生の生涯を象徴しているように私は思えてならない。
信念と誠実に生きた野中兼山
さて「大道」は、江戸時代初期の土佐藩
(現在の高知県)の 執政しっせい (藩政担当者)、 野中兼山のなかけんざん (一六一五―一六六三)を描いた小説である。

彼については今なお様々な見方や評価がある。ここでは、この小説に描かれた兼山像を中心にお話し申し上げたい。

兼山は、約三十年にわたって藩政を担当し、大規模な新田開発、産業の振興、人材登用などに縦横無尽に腕をふるい、土佐の繁栄の基礎をつくった人物である。幕末・維新の際の土佐藩の目覚ましい活躍を可能にしたのも、その淵源は彼にあるといわれている。

しかし、この大功労者も、功労が大きすぎるゆえにか反対党の 嫉妬しっと を買い、その策謀によって失脚。四十八歳で急死する。さらに、一家も過酷な迫害にあい、兼山は長い間、 奸物かんぶつ (悪人)として歴史の 闇やみ に葬られた。

子母沢氏は作家の眼で、この闇の中に埋もれていた兼山の信念をよみがえらせ、彼の魂に光をあてようとしたのである。

先程も申し上げたように昭和十五年刊の作品だが、今も本当の指導者、政治家の生き方に、大きな示唆を与える小説といってよい。

私も氏には直接お会いできなかったが、戸田先生からよくお話をうかがって知っていた。「いい人だよ。一度、会わせておきたいな」とも言われていた。

物語は、兼山の波乱万丈の生涯を表すかのように、嵐の光景から始まる。

吹きすさぶ風雨。 潅漑かんがい のために築いたばかりの堤防が切れるのではないか
――兼山の友人、 弥右衛門やえもん は、豪雨の中を飛び出していく。

川は、どんどん水カサを増していく。ふと見ると、堤防の上に腹ばいになっている武士がいる。風雨に打たれながらも 堤つつみ を抱きしめるようにして、動かない。それが兼山であった。

藩の執政自ら、堤の無事を確かめるため、嵐をついて出てきたのだ
──子母沢氏は史実に基づきつつ、書き進めていく。
兼山は藩の政治をあずかる者として誰よりも真剣であった。何ごとにも率先し、全責任をもってことに当たった。ささいな小事も、絶対にゆるがせにはしなかった。

「大きい堤も 蟻あり に崩されることがある」と知っていたのである。まして、生命をかけて築いた″民衆のための長堤″である。たった一人でも守り抜く決心であった。

こうした彼の姿を、古いという人もいるかもしれない。が、時代がいかに移ろうと、指導者としての生き方の根本姿勢は変わってはならない。自らの責任に徹した兼山の行動は、そのまま現代の指導者のあるべき姿に通じるといえよう。

嵐の中で兼山は友にいう。

「弥右衛門、安心せえ、 堰堤つつみ は 未来永劫みらいえいごう 、切れぬワ」と。
なぜか。彼には確信があった。

「わしは常に正しい者への限りない 天佑てんゆう (天の助け)を信じている。野中兼山は、私を以て 一塊いっかい の土、一筋の溝をも動かさぬ。ことごとく 君公くんこう (藩主)のため、領民のため、はたまた、わが日本のためにぢゃ」

「この兼山の心を、天下千万人ことごとくが知らなくとも、すなわち天しろしめす。兼山の味方はいつも天と思いおる」──。

彼の確信通り、堤防は大嵐にも盤石だった。兼山は、誰が知らなくともわが「無私の心」が天を動かすと信じ切って動じなかった。
私欲なき人は強い。
「私心」や「エゴ」や「我欲」を捨てた分だけ、その空いた部分に「小我」を超えた天=宇宙の力がみなぎってくる、と彼は言いたかったのだろう。

これは宇宙そのものが「無私」の「大我」の世界であり、「慈悲」の当体ととらえる仏法の一分に通じる。

まして、広布を目指しゆく私どもの無私の信心が、御本尊に、また諸天に通じないはずがないことを、強く申し上げておきたい。
決定の一念は諸天に通ず

次元は異なるが、大聖人は御自身が幾多の大難を乗り越えることができた理由について、次のように仰せである。

「いまだ此の事にあはざりし時より・かかる事あるべしと知りしかば・今更いかなる事ありとも人をあだむ心あるべからずと・をもひ候へば、此の心の いの祈 りとなりて候やらん・そこばくの なん難 をのがれて候」と。

すなわち日本中から大聖人は迫害をうけた。しかし
――いまだ、難にあう前から、こういうことは必ずあると知っていたので、今さら何があろうとも、他人をうらみに思う心をもつべきでないと思ってきた。その覚悟の心が自然のうちに祈りとなったのであろうか。これまでの諸難を生きのびてこられた――
との言である。

いかなる理不尽な圧迫が続いても、そんな嵐は、むしろ当然であり、覚悟の上ではないか。今さら、何も嘆かないし、うらまないと。

そうした 決定けつじょう の一念によって諸天が守りに守ったとの仰せと拝される。

私ども門下もこの大聖人の御確信を深く拝さねばならない。一念の差は微妙である。ある意味でタッチの差である。疑いや迷いの、弱き濁りのある信心であってはならない。それでは諸天が感応しないからだ。

反対に、強き信仰の人は、外がいかに嵐であっても、胸中は雲ひとつない大空のように晴れやかである。あたかも外が豪雨であっても、堅固な家であれば、中は一家団らんの花園でいられるように。その、すっきりとした不動の一念が諸天に通じていく。

以前にも拝読したが、大聖人は次のようにも仰せである。

「汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」
──あなた方は(権力者らの)人を味方にしている。日蓮は日天・月天・帝釈天・大梵天王を味方としよう──と。

いかなる世間の権威、名声も宇宙の大法則にまさるものではない。人を頼らず、ただ天を味方として正義の戦いに挑んでいく。これが真の信仰者の崇高な確信の人生である。

さらに大聖人は「一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・乃至梵王・帝釈・日月等にだにも・ふびんと・をもはれまいらせなば・なにか くるし苦 かるべき」と。

──一切の人は憎むなら憎め、人がどうであろうと、釈尊、多宝如来、全宇宙の諸仏以下梵天、帝釈天、日月天らに、いとしい人だ、大切な人だと思われたならば、何を苦しむ必要があろうか、むしろ大いなる喜びではないか──
と仰せになっている。

私どもの立場でいえば、日蓮大聖人のおほめをこうむり、けなげな信心だ、大切な門下だと思っていただけたならば、他はすべて、とるに足らない 些事さじ である。

根本の基準は、あてにならない世間の目ではない。仏法の世界の「仏眼」である。また法を中心とした「法眼」である。

この一点に徹した人は強い。何ものにも紛動されない。ここに信仰者としての 真髄しんずい の一念がある。その一念通りに生ききっていく人は、その 潔いさぎよ き人生自体が、人間としての勝利の姿となる。

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池田大作全集71巻より
墨田、荒川区記念支部長会 (1988年10月12日)①
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(参考)
■http://6027.teacup.com/situation/bbs/24971

■http://6027.teacup.com/situation/bbs/24676