投稿者:大仏のグリグリのとこ   投稿日:2015年 5月18日(月)15時13分14秒     通報
「僣聖」とは、《聖者を装う》という意味です。では、第三の僣聖増上慢を見ていきましょう。

「あるいは、人里離れた所で、粗末な衣を身にまとい、静かな修行の場にあって、
自分では真実の道を行じていると思い、俗世間を軽蔑する者がいるでしょう。

自分の利益に執着して、それを貪るために在家の人々に法を説いて、
世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです。

この人は邪悪な心を抱いて、常に世俗のことばかり考え、
山林で修行している立場を表に出して、私たちの過失を上げつらうことに余念がないのです。

常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、高僧や社会の有力者および
その他の僧たちに向かって、私たちを誹謗し、悪人であると説き、邪義を唱える人であり、
外道の論を説いていると訴えるでしょう」(通解 二二四頁)

これが第三の「僣聖」です。

「六種の神通力を得た聖者」とあるように、僧侶(職員)であっても一般の僧侶ではなく
もっとも高い地位にあって、世間からは仏の悟りにもっとも近い存在――。

学会でいえば、会長・副会長・理事長・役員等の幹部のことです。

つまり「高僧」のことです。

大聖人は、この僣聖増上慢の特徴を詳しく挙げていきました。

それをまとめると、

■【人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う】

世俗を離れた大寺院(信濃町本部など)、いかにも仏道修行に専念しているかのような場所
にいるということです。

じつは、場所自体に宗教的権威を感じさせる所にいるのが僭聖増上慢です。

■【自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする(人間を軽賤する)】

これも道門増上慢と同様に、自分自身では真の仏道を行じて何らかの境地に達していると思っています。

実際には、何の境地にも達していないのですが、高い地位(役職)にいて人々から崇められていることから
本当は何かを得ているような錯覚を持つのです。

しかし、それは単なる思い込みや錯覚、あるいは願望みたいなもので、何の実体もないのが道門と、これまた同様なのです。

要するに、彼にとって偉いのは自分だけであって、他の何者も尊敬に値するものはない。

社会的な地位や評価がいかに高い存在であっても、いかに偉大な権力者・富豪・学者・芸術家であれ
僭聖増上慢にとっては、所詮ゴミのようなものであり、何の意味も持たない。

価値があるのは、唯一自分だけであり、自分以外の一切の他者は無価値であるという徹底した
自己愛とニヒリズムに生きるのが僭聖増上慢の本質です。

彼にとって他者が意味を持つのは、自分にとって利用できるのみの時だけです。
自分にとって利用価値がないと判断した時、何者であっても切り捨てていくのです。

もちろん、社会的に力と権威を持っている存在には表面的には相応の礼儀は示しますが、
彼の内心は、一切は徹底した蔑視の対象なのです。

つづく。