投稿者:谷川ひろし   投稿日:2015年 5月31日(日)17時12分52秒     通報

この一連の流れは、報恩社をはじめ「谷川・佐藤」擁立派にとっては、
大変ショックだったと思います。

特に、長編詩「青年よ、21世紀の広布の山を登れ!」で頂上到達の日とされた
平成13(2001)年5月3日にも若い世代への交代はなく、同年7月に「秋谷会長の再任」
という出来事は、彼らにとっては、落胆の極みであり、トドメを刺された感があったのかもしれません。

さらに、追い討ちをかけるように、池田先生が本部幹部会(カットされている部分)等で、
「東大卒は会長にしない」と何度も発言され、「創大卒で中心を固める(7月全体会議での発言)」と宣言されました。

ところで、これは余談になりますが、秋谷会長は、報恩社のことをどう思っていたのでしょうか。

当然、これは当人に聞いてみなければわからないことですが、ここで、秋谷会長のエピソードを紹介したいと思います。

題して【武蔵村山市への徳州会進出問題】として紹介します。

東京に病院を持っていない徳州会は、しきりに東京への進出を画策し、政治家に接触していました。
特に、石原慎太郎氏とは、主治医が鎌倉・徳州会病院の医師だったことから関係が深く、
理事長の徳田虎雄氏は石原氏の「医療顧問」のような立場にいました。

「石原新党」構想を最初にぶちあげたのも、徳田氏でしたし、平成11年(1999年)3月、
石原氏が都知事選に出馬表明する前夜に都内のホテルで会っていた相手も徳田氏でした。

猪瀬前都知事が徳田氏から5000万円もらっていたことが事件化し辞任しましたが、
石原氏にも億単位の資金が提供されていたといいます。

同年8月、30代の若い武蔵村山市長が徳田氏と会談し、旧小学校跡地に
「徳洲会」病院誘致を決定し、賃貸契約を結びました。

これを後押しするかのように、『新潮45』(同年12月号)で徳田氏と対談した石原都知事は
「日本の大病院の中で、まともなのは徳洲会だけだな」とべた褒めし、
「徳洲会の病院を都内に作んなさいよ」
「どこかどうしょうもない都立病院を見つけてきて、徳洲会に任すかな」

などと、東京進出を盛んに持ちかけた。当時、都立病院は共産党の巣窟となっていたので、
都知事はそれを潰したかったとも言われています。

地元医師会や共産党は反対しましたが、
徳洲会のことを何も知らなかった公明党や学会の幹部は、基本的に病院建設には賛成の方向に傾いていました。

石原都政1期目の1999年に、都内で初の徳洲会グループの病院を武蔵村山市に招致することがほぼ決まったも同然でした。

ところが、平成12年(2000年)2月、小選挙区(東京7区)に「大野由利子」を
立てて戦った衆議院選挙(同年6月投票)の対策に秋谷会長が入った時、
それを一気にひっくり返してしまったのです。

友人の話によると、秋谷会長はその時、こう語ったそうです。

「何を考えているんだッ。徳州会というのは、自由連合だぞ」

「学会員で、徳州会の理事をやっている人間が2人いる」

「一人は、元創価班委員長の竹岡誠治、もう一人は金城会のT乗という人間だ」

「T乗は、徳田虎雄の秘書室次長だ」――と。

その後、結果的に公明党が反対に回り、頼みの市長も、2002年の市長選挙で落選。
誘致反対の市長が当選して計画は頓挫。

かくして、徳州会の武蔵村山市進出は失敗に終りました。

(【東村山への徳州会進出問題】終わり)

ちなみに、ここに出てくる「金城会のT乗」という人間が、音頭をとって、
反対に回った公明党の市会議員を「告訴」するという事件まで起こったのです。
この事件は、会長直々の案件として会長が指揮をとったといいます。

そもそも報恩社と金城会は、K田という金城会のOBらを通じて、非常に密接な関係が築かれています。

つまり、金城会も「谷川会長・佐藤理事長」擁立の勝ち馬に乗ろうとして蠢いた勢力の一つというわけです。
つづく