2015年5月31日 投稿者:谷川ひろし 投稿日:2015年 5月31日(日)17時11分25秒 通報 浅見落としの「天鼓」が再開された平成11年(1999年)年7月――。 この時期は、まさに公明党が「第二次・小渕内閣」で入閣し、「自自公路線」が 完成する直前の時でした。自自公路線の完成は、同時に、八尋・谷川・佐藤・報恩社 ラインの勝利を意味していたのです。 そして、平成12年(2000年)暮れの加藤政局で、加藤氏が失脚した後、報恩社は 言ってみれば「絶頂」の時期でした。 というのは、まず、政治の世界は一番の実力者である野中氏を握り、 宗教の世界では、次期会長・理事長候補最右翼の「谷川・佐藤」を握っているという絶頂感――。 何も怖い者はない、という舞い上がった心境が、報恩社社員である「I氏」をあのように ベラベラとしゃべらせたのだと思います。 ※「I氏との対話」http://6027.teacup.com/situation/bbs/25093 ところが「魔は天界に住む」との御金言通り、そこから報恩社の転落が始まります。 政治の世界では、平成13年(2001年)4月、「まさか」の小泉政権が誕生――。 野中氏は、“守旧派の頭目”というレッテルを貼られ、結局、 政治家として葬り去られてしまいました。 また、頼みの「谷川会長・佐藤理事長」体制も、いつまで経っても誕生しない。 平成12年(2000年)7月で、秋谷会長の任期が、池田先生の任期19年間を 超えることになるところから、「先生はそれを許すはずがない。その前に会長は 絶対交代する」と、報恩社社員は大はしゃぎでしたが、それはありませんでした。 ならば、同年11月18日で「会長交代」と騒ぎしましたが、それもなし――。 今度は、「平成13(2001)年5月3日で、絶対に交代する」と言っていましたが、 やはり、それもありませんでした。 それどころか、同年7月には早々と、秋谷会長の再任が打ち出されました。 そしてその後、5年間、秋谷会長の体制が続くことになるのです。 「いつまで、待たなきゃいけないんだよお~」と報恩社社員は泣きの涙の恨み節を。 Tweet