2015年5月30日 投稿者:谷川ひろし 投稿日:2015年 5月30日(土)21時39分30秒 通報 「報恩社社員 I氏との対話」を読んで、一番ビックリしたことがある。 ※参考資料 2000年12月9日 21時~23時 新大阪駅前「居酒屋むらさき」にて対話された記録です。 ———————— H社……報恩社 H太郎……ほがらか太郎 S班……創価班 I……伊藤雄教 P……名誉会長 A氏……浅見茂 S青……佐藤青年部長 T川……谷川 K……北林芳典 T岡……竹岡誠治 S男、S……佐藤男子部長(当時) O田……太田昭宏代議士 H地……波田地 ————————- http://6027.teacup.com/situation/bbs/25093 それは、平成12年暮れの「加藤政局」の時、加藤紘一氏が自民党を割って「出るかどうか」という もっとも緊迫した日に、報恩社の北林氏が野中広務氏と会っていたことだと思う。 どうしてこんなことになるのか説明します。 創価学会は、平成7年11月の参議院「佐賀県・補欠選挙」までは、新進党・小沢一郎と手を組み、応援していました。 しかし、その後の「京都市長選挙(平成8年2月)」で、自民党候補を応援して以降、徐々に「自自公」の方向へ進んでいきます。 そして、平成9年12月の「新進党・解党」後、 平成10年5月~6月、自民党は「信平問題」で、自由新報・橋本総裁・加藤幹事長が相次いで謝罪。 平成10年7月、参院選で自民党が敗北し、橋本内閣が総辞職し、「小渕内閣」が成立。 これで連立政権への流れが一気に加速し、平成10年11月に「自自」。 平成11年10月、ついに第2次「小渕内閣」で公明党が入閣し、「自自公」が成立します。 この「自自公」政権への流れの転換点は、自民党の実力者である野中氏を学会側が抱き込んだことです。 野中氏を籠絡(ろうらく=自分の思い通りに操ること)した後、亀井静香氏を落とし、次々と反学会を標榜していた議員を切り崩します。 その一番、最初の「野中広務氏」を落とす役割を果たしたのが「竹岡氏」だったのです。 また、平成14年、竹岡氏の長女(全国男の姉)と、北林氏の長男が結婚し、2人は盟友から親戚関係になったのです。 その結婚式の披露宴で野中氏が出席して、挨拶をしていました。このことは、週刊誌でも取り上げられ、話題になりました。 今から思えば、「天鼓」がバラまかれた平成10年12月~平成11年7月の時期は、 ちょうど、公明党が自民党との連立政権に踏み切るかどうかで揺れていた時期に当たります。 この当時、学会内にあっても意見は、二つに分かれていました。 つまり、小選挙区制度を導入したそれまでの「一・一(小沢一郎と市川雄一)新進党路線」 を推し進めたのは、秋谷・野崎・浅見ライン。 これに対して、報恩社・八尋・谷川・佐藤ラインは「自公連立を志向」していたわけです。 いま思えば、この浅見副会長・追い落とし事件である「天鼓」は、政治路線の対立 だったのかも知れません。 平成8年10月、衆議院選挙で新進党(公明系候補)は大惨敗しました。 友人の話では、この時、佐藤ヒロシは、 「野崎、浅見はバカだ。俺だったら、細川内閣ができた時に、閣外協力にとどめた」 「一・一ラインに執行部が乗っかったのが失敗だった」 と批判していたそうです。 もっとも、報恩社のI氏は、「総東京長の浅見はトンデモナイ! 東京の会館に 白蓮社のパンフを置かしている。俺たちに死ねというのか!」と怒っていたという ので、本当は“葬儀社戦争”であったわけですが・・・。 いずれにしても、この「天鼓」事件から、創価学会はうるわしい異体同心の団結の 世界から、権謀術数・なんでもありの永田町のような世界になってしまいましたね。 自民党との連立と同時に、信濃町は権力の魔性の天魔に犯されていきます。 つづく Tweet