投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月27日(水)01時49分58秒     通報

一切の衆生は妙法蓮華経の当体である。故に御本尊=自分自身という方程式が成り立つが、これだけでは理である。誰もが十界互具であり、仏界を具えているが、具えているだけでは理であり、現実に仏界が湧現してこそ事となる。思っていても、行動しなければ結果的に思っていないのと同じように、仏界を具えていても、顕現されなければないのと同じである。このことを当体義抄で、「権経・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない(趣意)」と。そして「実教の法華経を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである」と。

御本尊と日蓮大聖人と自分自身は全く差別はなく、そのように信じることこそが生死一大事血脈であるが、これもまた同じだけど同じではないという原理が存在します。そもそも御本尊とは、妙法蓮華経の当体そのものであり、完全体です。そして法華経を身読され、発迹顕本されて日蓮大聖人の魂そのものが妙法蓮華経の当体であり、それを曼荼羅にしたのが御本尊であります。一方の我々は、九界の世界に住しており、凡夫を表として生きています。内証は仏ではありますが、常に揺れ動いているのが凡夫の特徴なわけです。ここに御本尊と自分自身の差異があります。日蓮大聖人も十界互具の凡夫ではありますが、御本尊に認められている「日蓮」は仏を指します。日蓮大聖人の「大」の字には聖人の中の聖人という意味と、仏(御本仏)という意味合いがあります。故に「日蓮聖人」という呼び方はしません。

妙法蓮華経の当体たらしめるものは何か。それが題目です。題目をあげなければ、事としての妙法蓮華経の当体とはなり得ない。妙法蓮華経の当体である御本尊に題目を唱えることによって境智冥合し、自身が妙法蓮華経の当体と輝き、仏界が湧現する。だからこそ御本尊を自分の命以上に大切にしようというのが信心なわけです。御本尊と自分は同等なのだけど同等ではないととらえるのが信心であり、それを「根本尊敬」というわけです。御本尊を御安置する際も、正座した時に、目上になる位置に安置するのは、「自分以上に大切にする」という意味合いがあります。まったく同等であるならば、目上にする必要はなく、同じ目線の位置に安置すればいいことになります。

だからといって、地震や火事等で、身の安全よりも御本尊を守ろうとする必要はないでしょう。御本尊が大切とはいっても、それは心の世界の話であり、大事なのは現実の生命(人)であります。ここを混合しないことが大事でありましょう。あくまでも自分自身が大御本尊であり、当体蓮華を顕現させる明鏡こそが御本尊であります。「同じだけど同じではない」という当体蓮華の法門は、法華経の究極であり、末法に弘通すべき肝心であります。これは、当体義抄送状(p519)に認められている内容であり、「このことは、国主が信心した後に、はじめて申し出すべき秘蔵の法門である」とも書かれています。それだけ甚深の法門であり、御本尊と日蓮大聖人と自分自身の関係を簡単に考えてはならないわけです。

もっとも危惧することは、信心がわかったつもりとなり、御本尊(教義)のことも軽く考えるようになることです。少し油断すると、凡夫というのは傲慢になり、自分を見失う。妙法とは妙な世界であり、「わかるのだけどわからない」。だからこそ素晴らしく、わかったつもりになるのは二乗である。これは信心が深まってくると陥りやすい落とし穴であり、気をつけねばなりません。得てもいないのに得たと勘違いし、道を踏み外していく。

教義変更は御本尊に関して深く考察していくきっかけでもあります。一人ひとりが今一度、根本尊敬である御本尊について、想いを巡らし、信心を深める契機とすることが価値でありましょう。