投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月26日(火)22時17分52秒     通報

御本尊は信心で拝していかなければ絶対にわからない。私は、今回の教義変更を推進した人たちの「信心のなさ」を心配する。そして信心のない人が、学会の舵を取っていることに対する懸念こそが、問題の本質であり、見ていくべきところであると思うのです。

大御本尊であろうと、書写本尊であろうと、功徳は同じであり、同等である。しかし、だからといって、大聖人真筆本尊と、書写本尊を同列に扱わないことが「信心」なわけです。同じだけど同じではないというのは、信心で拝すればわかるわけです。信心がなければ、同じなのだから何でもいいとなる。「力用が同じなのだから、誰が書写しても構わない」という発想の先にあるものは、御本尊軽視である。御本尊軽視は、これ謗法である。日寛上人の大御本尊の論理の根底にあるのは、「慈悲」であると私は考える。御本尊は誰が認めてもよいということになると、本尊雑乱の因となり、御本尊軽視の流れをつくることになる。これ恐ろしいことである。

教義変更の解説で、「『弘安2年の御本尊』につながらなければ他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である」と、説明されていますが、これは言い過ぎであり、信心のなさが表れている。確かに普通に考えれば、大御本尊に繋がらなければ力が発揮しないというのは一種のオカルトじみた原理であるが、もしもこの原理がなければどうなるのかを考えれば見えてくるものがあります。大御本尊を根本=正しい信心と言い換えることができ、もしも、そこにつながらなくても同じであり、関係ないということになると、信心そのものが壊れてしまう危険性がある。大御本尊につながるとは、「正しい信心」を意味し、何でもよいとなってしまうと、正しい信心から外れてしまい、結果的に、功徳が出せなくなるわけです。そのような意味合いとしてとらえることができ、そのようにとらえるのが信心でありましょう。

だからといって、「大御本尊があるから我々は正しいのだ」という主張も違うわけです。それ自体も信心のなさを表していることも付け加えておきましょう。大御本尊と書写本尊を立て分けて、大御本尊を根本本尊ととらえることは、信心の眼で見れば可能である。信心がなければ、御本尊は全部一緒です。自分が認めたとしても、御本尊足り得るでしょうが、問題はその心根にあります。「御本尊は誰が認めても同じ」という、御本尊軽視の一念に信心があるとは思えない。理論的には同じでも、同じとして考えないからこそ、自分で認めることもなければ、どこぞの馬の骨ともわからない人間が認めた本尊を拝もうとは思わないわけです。それがたとえ功徳があったとしても。

宗門が謗法の山と化した今、ことさらに大御本尊にこだわる必要はなくなったと私は考えますが、その理由としては大御本尊=正しい信心ではなくなってしまったからである。大御本尊擁する宗門が堕落してしまったことは、そこには正しい信心が流れていないことを意味します。そういう意味において、学会が大御本尊を絶対としない立場をとり、独自の路線を構築していくことは良いと思うのです。しかし、それを推進するには信心がなければ過ちを犯します。大きな路線変更であるが故に、周到な準備が必要となることは、自分が会長であることを意識しながら考えればわかることです。周到な準備こそが、信心であり、覚悟なのです。それなくして推進することは、信仰の根幹に関わる問題であるが故に、諸刃の剣となる。当然、教学部のゴーサインが必要であり、懸念を示されるレベルで見切り発車していいわけがないことは、容易に想像がつくでしょう。

拙速な教義変更に懸念を表明する人が、一度はよぎった言葉はこれでしょう。
「まだ、あわてるような時間じゃない」