投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 4日(月)22時30分35秒     通報
小説『人間革命』 脈動 より

半年後に予定されている参議院議員選挙を考えた時、本来、当選が最も危ぶまれるのは、大阪地方区であった。しかし、大阪では、首尾一貫、草の根を分けての信心指導に徹していて、信心の旺盛な昂揚から、活発な弘教活動に入っていた。

仏法者としての社会建設の使命の自覚、そして信仰の歓喜と躍動――これこそが一切の活動の原動力となる。ゆえに、明暗は、既に、この時に兆していたといえよう。

戸田城聖が、当初、弟子たちに与えた厳正な指導は、まことに寸分の狂いもなく正鵠を射ていたといってよい。

彼の指導を、億劫の辛労を経て肉化させ、わが指標として、戦いの駒を賢明に進めた弟子がいた。

その一方で、責任者となり、組織を掌中に握ったと錯覚し、官僚的な権威で、当時の、初信者の多い地方会員を動員しようと焦った弟子もいた。いずれが戸田の長い薫陶を生かした弟子かは、自明である。

(中略)

戸田城聖が、長年、手塩にかけた弟子たちは、全国に散って活動した。

この活動のなかで、広宣流布の実践における師弟の関係を、単なる師弟の道ととるか、師弟不二の道ととるかが、初めてあらわにされたと見なければならない。

師の意図するところが、現実に現れるか、現れないかは、弟子の実践の姿を見れば容易に判断のつくことである。

師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道をかろうじて全うすることができる。師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。

そのためには、師の意図の脈動が、何を根源としているかを深く理解し、自らの血管にたぎらせていく、困難にして強盛な信仰の深化を必要とする。その師弟の本源の力は、言うまでも、なく御本尊に帰着する。

まさに山本伸一が、この大阪での活動に先立って、一念に課した億劫の辛労は、その困難さを、避けることなく乗り越える作業であった。それによって、師弟一体の実践の姿を現したのである。
多くの弟子たちは、その困難さを避ける。

師の意図に背く考えは、さらさらないものの、師の意図を、ただ教条的にしか理解しない。

そこで、厳しい現実に直面すると、周章狼狽して、師の意図を、ただ言葉だけで機械的に同志に押し付けて事足れりとする。あるいは、直面した現実を特殊な事態ととらえ、信心という根本を忘れ、浅薄な世間智を働かせて現実に対応しようと焦る。ここに至って、師弟の脈動が断たれていることに気がつかない。

師の考えるところと、弟子が懸命に考えることとが合一する時、信仰の奔流は偉大なる脈動となってぼとぼしる。

師の言葉を教条的に理解し、ただ追従することは、弟子にとって極めて容易なことだ。師の言葉から、師の意図を知り、さらに、その根源にまで迫って、その同じ根源を師と共に分かち合う弟子の一念は、まことに、まれだといわなければならない。しかし、このまれなる一念の獲得にこそ、師弟不二の道の一切が、かかっているのである。

日蓮大聖人に常随給仕の誠を尽くした日興上人が、六老僧のなかにあって唯一人、師弟不二の道を全うすることができたのも、この困難な師弟の道に徹したからである。

ここに五老僧の単なる師弟の道が、師に敵対するにいたってしまい、日興上人の師弟不二の道が、大聖人の仏法の正義を、よく継承し得た唯一の理由がある。

次元は異なるが、広宣流布の実践のうえで、戸田城聖と山本伸一における師弟という不二の道もまた、今日の創価学会を形成発展させてきた大動脈であったことは、一点の疑いもなきところである。

ただ、一九五六年(昭和三十一年)当時、草創期の激流のなかにあっては、この大動脈は、人目につかぬ底流に潜んでいるしかなかった。大阪の激闘の成功は、この師弟不二の道の実践が、いかなるものであるかを表していたといってよい。