投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 4月22日(水)21時53分48秒     通報
池田大作全集75巻より
第二回全国男子青年部幹部会 (1990年9月30日)

■権力と戦った詩人・ 尹東柱ユン・ドンジユ

さて、この九州研修道場がある霧島は、霧島火山帯でも有名である。その霧島火山群の最高峰を韓国岳という。この研修道場からも見ることができる。

標高は一、七〇〇メートル。山頂からの眺めは壮大である。南には情熱の桜島や、薩摩富士といわれる開聞岳を一望する。北には雄大な阿蘇を遠望することができる。

古には、遥かな 韓から の国
―― 韓かん ・朝鮮半島を望むことができたところから、この名があるともいう。そうした伝説が生まれるには、さまざまな背景があったと考えられるし、半島との長く深い交流の歴史をしのばせる名と言ってよい。

ご存じのように、私は今回、韓国を初訪問した(=九月二十二日、韓国・ソウルで開催された「西洋絵画名品展」〈東京富士美術館所蔵〉のオープニングのために初訪韓)。

日韓の友好。それは、私が長くいだき続けてきた願いである。

日本には、戦前、韓・朝鮮半島や中国、東南アジアで、暴虐の限りを尽くしてきた歴史がある。日本が犯した過ちについて、私は戸田先生から幾度となく話をうかがった。とともに、少年のころ、父や長兄からも繰り返し聞かされたものである。
明治の末、あるいは大正の初めであったか、父は徴兵を受け、現在の韓国・ソウルに二年間、滞在していた。長兄も兵士として、中国に渡る体験をした。

父と長兄は、当時としては非常に人道主義的な考え方の持ち主であった。よく「日本はひどいよ。あの横暴さ、傲慢さ。同じ人間同士じゃないか。こんなことは、絶対に間違っている」と語っていた。

そのころ、私は小学生。五年生ぐらいだつたろうか。二人の戦争への怒り、日本の侵略への憤りを、私は少年の魂に深く刻んだ。

仏法者として、今日まで世界の平和へと駆けてきた私の行動の原点は、当然、戸田先生である。恩師に学んだ平和観と世界観が根本にある。とともに、父と長兄の、こうした平和への願いが大きなバネとなってきたことも間違いない。

私の長兄は、終戦の年である昭和二十年(一九四五年)、ビルマで戦死した。朝敏二十九歳。かけがえのない青春の日々を、戦場に送った兄であった。

この同じ一九四五年二月。九州の福岡刑務所で、二十七歳の若さで獄死した一人の青年詩人がいる。

その青年の名は 尹東柱ユン・ドンジユ ――。韓・朝鮮半島からの留学生であった。

彼は日本で立教大学に学んだのち、同志社大学在学中に、治安維持法違反の容疑で逮捕される。
戦時中、牧口先生、戸田先生が逮捕されたのも、この治安維持法違反と、旧刑法の不敬罪に問われてのことであった。

平和を願う人、人々の幸福を思う人を見れば、消し去ろうと画策する。善意の人、正義の人が立てば、蹂躙しようと襲いかかる。――そうした権力の魔性の働きは、つねに変わることがない。絶対に負けてはならない。

日本に勉学にきた学生を、大切にするどころか、非情にも逮捕し、獄死させるとは、まことに狂気の行為といわざるをえない。

当時の、日本による植民地支配。それはそれは、横暴きわまりない、過酷なものであった。その大きな犠牲となった韓・朝鮮半島――。祖国の独立運動にかかわったという罪に問われ、彼は捕らえられてしまう。

嵐のような権力の蹂躙――。

その暴風雨に身をさらしながら、この若き詩人は、誇り高き青春の魂の詩をうたい続けた。

日本が奪い取ろうとした、愛する祖国の言葉で、祖国の文字・ハングルで、珠玉のごとき、美しき青春の詩を、命を賭けて残した。祖国に″新しい朝″が必ずくることを信じ、願い、戦った。

二年間にわたる獄中生活では、残酷な扱いを受けた。そして彼は、日本の降伏による解放の日(八月十五日)をみることなく、福岡刑務所で獄死した。
いかなる仕打ちを受けようとも、死の瞬間まで希望をいだき続け、戦いぬく精神

――これが真実の、青春の魂である。

■青春の歴史に不滅の魂を刻め

いわんや広宣流布という、もっとも崇高な使命に生きる青年が、何を恐れ、何に怖じる必要があろうか。広布における苦難は、すべてが青春の勲章であり、魂の誇りである。

見栄を張り、はったりや小細工をして、いつまでも心の決まらない青年が、どうして本当の人生を生きることができようか。

世界は今や「民主」と「人間」の時代に向かっているが、まだまだ多くの難問をかかえ、新たな希望の道を模索しつつある。そのなかにあって、妙法を受持した諸君こそ、時代の夜明けを告げ、世界に人間主義の″新しい朝″をつくりゆく使命の人である。そのことを深く自覚しなくてはならない。(拍手)

詩人・ 尹東柱ユン・ドンジユ は、弾圧ゆえに、生前には一冊の詩集も出していない。

日本の官憲に押収され、闇に葬られた詩もあったと推測される。彼はまったく無名のまま、その生涯を終えることを強いられたのである。

しかし、彼の残した百編あまりの詩は、今なお祖国の青年たちに愛され、鮮烈な魂の共鳴を与え続けている。日本でも翻訳され、『尹東柱全詩集・空と風と星と詩』(伊吹郷訳、記録社)として出版されている。

彼が日本に留学する前に学んだ延世大学のキャンパスには、彼の詩碑が建てられ、そのなかに次のような文が刻まれている。

「彼がこの丘を散策しながらうたった珠玉のごとき詩は、暗黒期の民族文学最後の灯として民族の心をうち そのこだまは空と風と星とともにいつまでも消えない」(同前)と。

空と風と星

――その永遠なる自然と宇宙とともに残るであろう青春の燃焼。諸君もまた、否、彼以上に、″不滅の青春″の魂魄を歴史に刻みゆく戦士であっていただきたい。

また、彼が十六歳の時に書いた「生と死」と題する詩は、いわば″生と死との戦いのうた″となっている。

世間の人々は、享楽の歌に踊っている。遊びや酒や恋愛に浮かれ、富や名声に心を奪われながら生きている。彼は思う。生はつねに「死の序曲」を歌っている、と。そして人々は「生の歌」が終わる恐怖を見つめることなく、その日その日を送っている、と。

これが、彼の目に映った人々の姿であった。
同様のことは、かつてトインビー博士も語っておられた。キッシンジヤー博士との対話でも話題になった。

人は、自分がいつ死ぬかをつねに考えながら生きているわけではない。できれば考えたくない。そして、ふと気がついて思うものだ。″ああ、もうこんなに年をとってしまったのか″と。

彼は若くして「生と死」を凝視した。諸君は若くして「生死の二法」の根源の大法に縁した。
生死を貫く絶対なる「因果の法」

――それを説ききったのが妙法である。ゆえに妙法を根本とした、私どもの一念と行動は、決してむなしく消えることなく、大宇宙と一体たるわが生命に刻まれ、無量の福徳として、永遠に光り輝いていく。

かけがえなき青春の今、大正法を持ち、広宣流布に進みゆく諸君は、いわば「″生死の二法″の達人」への道を歩む人である、と心から讃嘆したい。(拍手)