投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 4月23日(木)11時26分32秒     通報 編集済
1993.5.5創価同窓の集い

牧口先生は、こう論じられておられる。ここでは、わかりやすく紹介させていただく。

「(利害・善悪・正邪等を判定する)簡単な道理が分からないものは“狂”――つまり狂っている。

また分かっていながら道理に従えないものは“怯”
――つまり卑怯である。

こうした人間は、公職に就き、高位に立つ資格のないものといわねばなるまい。

なぜなら、こうした人間は、利害も善悪も、すべて好き嫌いという一時的な気分で判定し、簡単に世渡りできると考える。

そして、傍若無人の振る舞いをするので、酔狂者(酔っ払いのように、常人のしないことをする者)に武器を持たせたように危険千万だからである」

まるで今日を予期されたような達見であられた。

この一言だけでも、あの偉大な戸田先生が牧口先生を慕われていた気持ちがよくわかる。

「狂」にして「怯」
――悩乱した指導者がいかに危険であるか。決して放置してはならない。倒さねばならない。

民衆がしっかりして、彼らを糾弾し、みずからを守らなければならない。ただ“人が良い”だけでは、悪い指導者に“なめられて”しまう。

指導者があって、民衆がいるのではない。

反対である。「民衆」あっての政治家であり、聖職者である。「学生」あっての教師である。にもかかわらず、民衆をバカにし、いばる人間がなんと多いことか。

これが、日本の情けない現実である。しかし、諸君は、時代を変えねばならない。民衆の一人一人が強くなり、民衆が「根本」である社会を築かねばならない。

「偉ぶった人間が何だ!」

――これが私の永遠の信条である。

なぜ、私が生きて頑張るのか。それは、民衆がいるからである。だれのためでもない、けなげなる庶民のためである。

その方々を守るために、そのためだけに、私は生きている。働いている。戦っている。諸君もこの私の精神を継いでいただきたい。