投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月15日(金)20時01分31秒     通報

勤行の中で、智慧第一の舎利弗に対し釈尊は、「仏の智慧は甚深無量である。お前にはわからん」とぶった斬っていますが、仏法というのは左脳で考えてわかるようなものではないことを示唆しています。ジル・ボルト・テイラー博士の言われている、「宇宙の生命力」とは仏界を表現し、これは右脳(感覚)でとらえていくものである。衆生には凡夫と仏という二つの側面を有しており、どちらも自分自身なのだが、どちらを選択し、根本として生きて行くのか。

末法の悟りとは、「自分自身が仏であることに気づく事」であり、それを成仏といいます。そして日蓮仏法は、万人成仏の法であり、どうしたら現実に仏界を湧現することができるのかを顕したのが日蓮大聖人です。それを大聖人は「南無妙法蓮華経を唱えること」としました。

自分には、二つの名前があります。私の場合は、一つはジョーカー(九界)であり、もう一つは南無妙法蓮華経(仏界)です。ジョーカーは左脳を司り、南無妙法蓮華経は右脳を司ります。題目を唱えるということは、右脳で行う事であり、ああでもないこうでもないと考え始めると左脳であり、祈りにはならない。勤行で出てくる舎利弗とは、ジョーカー自身に他なりません。凡夫はどうしても、功徳を推し量ろうとします。叶う叶わないを頭で考え判断してしまいます。そういう自分自身は破折するのも勤行の意義でありましょう。

宇宙の生命力の世界(南無妙法蓮華経)に入っていく鍵は「信」にあります。まさに信心です。師弟不二の覚醒とは、自分が仏であることを体感・体験することと言い換えることもできるでしょう。そのためには、何か特別な条件はいりません。たとえば、これだけ題目をあげろとか、折伏何世帯とか、学会活動何年以上とか、そういうのは「いつか仏になる」という発想であり、日蓮仏法の考え方ではありません。即身成仏の法ですから、題目を唱えることで完結します。

元々、誰もがすべての功徳を兼ね備えた完全体であり、欠けているものは何もありません。それに気づかず生きているのがもう一人の自分であります。御本尊根本、信心根本で生きるという事は、宇宙の生命力を根本に生きるという選択をした人生ということです。祈り(信心)を根本とすれば、宇宙には不可能という概念はないので、実現のために最高の智慧が湧いてきます。それを随縁真如の智といい、法華経の兵法ともいうわけです。

御書における文証として(p411)
趣意「妙法蓮華経とは経典の名前ではなく、自分自身のことだった。本来の自分を顕す仏の言葉である。そのことを覚るとどうなるか。今までずっと自分はつまらない存在だと思い込んでいた錯覚はあとかたもなく消えてしまう。まるで昨日の夢のように」

これを信じて一遍、百遍、千遍と題目を唱えていくこと。これが如説修行であると説かれています。すべての衆生は例外なく仏であり、そこから漏れている人は存在しません。私もあなたも尊極な仏であり、だから生命尊厳なのです。南無とは帰命であり、100%の信であります。自身がすべてを備えた宇宙生命そのものであり、題目を唱えること自体、そのことを無意識下でわかっているわけです。そうでなければ題目を唱えることはできず、逆に考えると、題目を唱えることが出来ることは、とてつもなくすごい事なのです。

考えることをやめた時に宇宙の生命力の扉は開かれる。そういう題目をあげることが師弟不二の覚醒への道である。南無妙法蓮華経とは自身の仏とアクセスする言葉である。