投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月13日(水)08時34分23秒     通報

御書の講義録の再版なしというのは、単純に考えられるのは売れないからでしょうね。それだけ、腰を据えた教学の研鑽離れが起きているように感じます。回りをみても実際そうですから。
現在は、教学試験一級が一つのゴールであり、それからは自己研鑽を促されます。私が一級試験を受験した当時は面接もありましたので、そこでは簡単には答えられないような教学の質問と、折伏の成果を聞かれました。面接官がそれを通して伝えたかったのは、「一級合格してからが教学のはじまり」「実践の教学が大事である」ということだったと捉えております。

それから私は、2回御書全編の研鑽をしました。そこで見えたものは、研鑽すればするほど、仏法は深淵であり、身読することの困難さ、わかったつもりになってしまっていた自分自身など、そういうことが実感できました。教学試験一級がはじまりだと思っていたのが、全編研鑽してやっとはじまりであると理解しました。セブンスター様が紹介されている三人の使いの御書も、強く印象に残っていて、何事においても「中途半端」が一番よくないことであり、慢心の元であると思います。「自分は頑張っている」「自分は知っている」と、思っていたとしたら、それ自体が中途半端なレベルであることを知る必要があります。知れば知るほど、学べば学ぶほど、自分が知らないという「無知の地」であることがわかってきます。

活動においても同じであり、本当に突き抜けたレベルの活動をしてはじめて、自分はまだまだであることに気づきます。頑張っている自負のある人ほど、慢心しやすいです。そういう人は活動していない人を下にみるようになっていき、活動できていない人が何か発言しても、聴かないようになってきます。私はこれを「中途半端な活動家の慢心」と位置付けています。どんな世界にも上には上がいるものであり、剣豪の修行の如く、担々と訓練している人間はいるものです。自分はまだまだであると気づけてやっと一歩目といったところでしょう。しかし、その一歩は限りなく大きい一歩であることも付け加えておきましょう。

ともあれ、セブンスター様が、「御書を勉強し直そう」と決意されたこと自体が本当に素晴らしいことであり、価値のあることであると思います。これは自発であり、強制されたものでないことにすごく意義があります。どうかこれを機に、本格的な教学の研鑽をされ、さらなる信心の深化をされていくことを期待しております。私も三回目の御書全編の研鑽に挑戦していきたいと思っております。