投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時59分49秒

学会に置き換えて言うと、「確かにあなたの言うように、一部の幹部は権威主義に陥り、御書と先生の指導を中心としないで会員に我見の指導している。だからといって、あなただってその幹部の指導をないがしろにして幹部を誹謗している。
これは同罪ではないのか。あなたと一部幹部の主張とは、どちらが正しいのか自分には判断ができない」ということです。

しかし、よく考えてみよう。大聖人は「法に依るのであって人によってはいけない」と言い、池田先生は「権威主義・形式主義ではいけない」と常々言っています。しかし、御書と池田先生の指導を中心とせず、権威主義・形式主義による組織運営や、我見の指導を流す「害毒」の大きさは、計り知れないものがあります。

「一部の幹部は権威主義に陥り、御書と先生の指導を中心としないで会員に我見の指導している。だからといって(本文「其の誹謗を成せども」)」と、客(会員)は言う――。

しかし、誹謗とは、善いものを嫉んで悪くいうのが誹謗なはずです。
悪を悪と断じ、その罪を糾弾することは、むしろ正義を守るための絶対必要条件です。もしも、悪を追及することが禁じられるなら、いったい世の中はどうなるのか――。

警察は活動を停止し、裁判所は門を閉じて、悪人は「わが世の春」とのさばり、
善良な民衆は不幸のどん底に突き落とされるにちがいありません。

こうした国法上の混乱にもまして、もっとも恐ろしいことは、仏法の正義が失われることです。だから、どんなに嫉妬され、迫害され、弾圧されてもそれを恐れず、
勇敢に、護法のため、民衆や会員の幸福のため、社会の繁栄のため、
世界平和のために正義をかかげて、進まなければならないのだと思います。