2014年12月6日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 6日(土)08時59分2秒 では、明王と聖人は何によって生ずるのでしょうか。政治にしても、経済にしても、教育にしても、これらは「人間」の営みであり、人間生命の具体的な表現です。 この人間生命を正しい方向に導き、変革し、最高に輝かせていく方途は、日蓮仏法しかないでしょう。その仏法を教える人が、仏法上における「聖人」の立場です。 過去の歴史を見ても、民衆のことを思い、国家のことを考えて、政治を行う指導者が現れたときは、その国が繁栄し、国力も富に充実していました。 しかし、悪い為政者に支配された時の国家や国民は、悲惨な目にあわされています。その善悪を決定したものは、指導者が持った「法や理念」の正邪、高低です。 さて、その後主人は、客に対して、法然のどこが悪いのか、法然の思想書である「選択集」の何がまちがっているのかを、道理と経文を通して、順々と説いていきます。そして客は、主人の主張に理解を示し落ち着きを取り戻していくのです。 「客、則ち和いで曰く」(二七頁)がそれにあたります。しかし客は、すべての主張に納得したわけではありませんでした。 客は「確かにあなたの言うように、法然の『捨閉閣抛』という思想は、経をないがしろにし僧を誹謗していることになる。だからといって、あなただって法然の思想をないがしろにして法然を誹謗している。これは同罪ではないのか。 あなたと法然とは、どちらが賢いのか愚かなのか、 どちらの主張が是なのか非なのか、自分には判断ができない」(同頁)と述べます。 Tweet