投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時58分12秒

「聖人は理非を察して世を治む」――。
ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、
さらにそれを社会の根本理念としていかなければならないということです。しかもその道理とは、人間としての道理であり、より根源的には、生命の哲理でなければなりません。「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負などを具体的に、政治や社会に反映させ、あくまでも民衆の生活の安定を目標としていかなければ意味がないのです。

政治、学問、学会組織は、何のためにあるのか、その帰着するところは「民衆の幸福の実現」にこそ、その要諦があるということです。

池田先生がつねに「人間の、人間による、人間のための・・・・」という指導をするのは、この原理によるものです。

しかし、現在のあらゆる社会機構の現状はどうでしょうか。理非を察してではなく、利害を根本として、社会が、組織が、運営されている観があります。そして、恐るべきことは、そのような政治や社会や組織であっても、それを何とか改革していこうという気力さえ、民衆の大半が喪失してしまったことです。

これが、民衆の生命それ自体が濁りきった姿なのです。これを打開する方途が見いだされないかぎり、腐敗した土壌に、いつも劣悪な政治が繰り返されるだけです。人間性を無視した政治が行われるのも、人間性を無視した学会組織にするのも、結局その底流は、民衆や会員の無気力と惰弱な生命にあるのです。