投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月 4日(月)17時55分31秒     通報

悪と戦うということは、悪の敵になるということである。どうしたら悪が嫌がるのか。逆に、どうしたら悪が喜ぶのか。悪にとって嫌なことは、正体がばれてしまうことであり、いかに情報を遮断するかが、悪にとっての戦いなわけです。情報を握っている人間、情報を得ようとする人間は、悪にとっては邪魔な存在である。

創価学会は、仏敵認定されない限りは、悪事は公にならないし、人々の知るところとはならない。悪はここに付け込んでくるでしょう。仏敵認定する側の人間が仏敵だったら一体どうするのか。一番怖いのは、さも味方のフリをしながら、実は仏敵であるということです。認定する側が仏敵だったら、自らを認定するわけがない。よって、悪事が公になることもなければ、断罪されることもない。「同志」というカテゴリーに属しながらの悪事は、隠れ蓑になるので、止めることも見破ることも困難である。

宗門は、法主が狂っても、結局は誰にも止めることは出来ずに、謗法の山と化してしまった。心ある僧侶は、離山するしか選択肢がなかったわけです。いくら諌めても聞く耳もなく、システムにおいても法主に逆らえない体制がつくられてしまった。気づいた頃には遅かったということです。宗門が謗法の山と化しても、創価学会があったから、日蓮の魂は護られましたが、翻って今度は創価学会自体が狂ってしまったら一体どうなるのか。次の受け皿がないので、狂う事すら許されないのが創価学会の現状ではないか。そういう意味において、悪の兆候のある段階から、どしどし正体を暴き、断罪していく流れをつくっていくことが大事になると考えます。

分派活動レベルの分かり易い反逆ならば、見破ることは容易い。一番やばいのは、主流の中に隠れている仏敵である。情報のない現場の会員は知る由もないだろうし、存在すら認知することができない。それをいいことに学会を私物化し、操ろうとする人間が、やりたい放題やり始める。そういう動きを一体誰が糾弾するのか。生活のかかっている職員には期待できないというか、しないほうがいい。本当に戦えるのは庶民であり、現場の会員であります。また、現場の名もなき一会員が戦ってこそ、創価学会の完成がある。

寸善尺魔という言葉の通り、悪は善の10倍勢力である。それに対抗するには、あらゆる手段(犯罪以外)を行使してでも、悪を見破っていかなければ到底勝てないと思います。今までは、先生自らが内部の悪と戦って下さったので何とかなってきたが、これからはそうはいかない。先生は、「任せたよ」「頼んだよ」と言われているのだから、弟子としては、「お任せください」でしょう。

身内に甘く、弱いのが人情です。しかし、創価学会は、外部の悪以上に、内部の悪に、より厳しく対処し、呵責を加えていく。それが組織の腐敗・堕落を防ぐ道であるからだ。内部の悪ほど会員を蝕み、苦しめるものはないからである。自浄作用を失った団体というのは、不正の温床となり、ダメになっていく。悪い幹部がのさばって、それでよしとする創価学会ではありません。この厳しさがあってこそ、日蓮大聖人の精神を受け継ぐことができ、仏意仏勅を名乗る資格があるというものです。

この先、学会に何が起こるかはわかりません。しかし、悪と戦う信心があれば、何があろうと動揺することはありません。だからこそ、現場の会員一人ひとりの悪と戦う信心が大事なのです。私の投稿が、悪と戦う信心構築の一助になればと思っています。