投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月27日(月)20時18分54秒     通報

所謂昭和54年までの迹門の池田門下に足りなかったものは何か。それは、「悪と戦う精神」ではないか。創価学会は、功徳論を前面に出して、広宣流布を進めてきた。正しい信心を行じているのだから、功徳が出るのは当たり前であり、前提である。功徳が出ていればよしとするレベルの信心は、まだまだ羊の信心である。それが通用しなくなったのが昭和54年の問題ではないだろうか。

昭和54年4月24日以後は、功徳の信心だけでは駄目であるということが明らかになった。信心の転換点とも言えましょう。悪と誰も戦えなかったという歴史であり、その信心では、新時代の海を渡ることができないことを意味しており、そのように捉え、さらなる信心を深める契機とすることが大事ではないか。広宣流布が進めば進むほど、当然魔が競い起こります。では、一体誰がそういった魔と戦うのか。それが、本門の池田門下の役割というものでありましょう。

そのために先生は、御自ら戦いを起こされ、獅子の人材群を育て上げるべき、指導を開始された。羊の信心では、結果的に正義を見殺しにし、学会を守ることができないからだ。悪と戦う獅子の信心の中に、本門の池田門下の魂は躍動する。

整理すると
迹門の池田門下:功徳を求める信心(羊)
本門の池田門下:功徳+悪と戦う信心(獅子)

このように分けることができるのではないかと考えます。自分自身が獅子となり、そして獅子を育てる。これが21世紀にふさわしい信心の形ではないか。信心をしていれば、功徳はいくらでも受けられます。日常のささいなものから大きなものまで数限りありません。功徳論を論じようと思えば、いくらでも論じることはできますが、掲示板の主旨に沿わないので、論じないだけであります。悪との戦いというのは、功徳を受けていることが当たり前であり、すべてはその上での話です。

そうはいっても、試みに一つだけ功徳の話をしておきます。私は折伏をガンガンやっていた時に、会合の帰りに交通事故で絶体絶命の事故に巻き込まれたことがあります。死を確信しましたが、運よくギリギリのところでかわすことができ、ほぼ無傷で生還することができました。生きるか死ぬかの瀬戸際を味わいました。この時、心底、諸天に護られたと思いました。死魔を極限のところで回避し、命が助かるという功徳を受け、そして御本尊流布を決めました。このくらいの体験ならば、現場でいくらでも聞けると思うので、読者は求めていないと判断します。現場では聞けないような、新しい観点を提供したいというのが私のスタンスなのです。

今までは池田先生が獅子となって戦ってくださったから、学会は守られた。先生が戦わなかったら、とっくに終わっている団体が創価学会であります。悪と戦う獅子の信心を継承し、戦う人材へと育ってこそ、師の勝利であり、広宣流布の道を拓いていくことができる。もしもリーダーが、羊の信心に甘んじるようなことがあれば、会員を見殺しにすることになる。それが昭和54年の教訓ではないでしょうか。

獅子の信心こそが、21世紀のキーワードである。羊の信心からいかに脱却するか。それが今、一人ひとりに問われているのではないでしょうか。