投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月26日(日)10時38分18秒     通報

ある意味、鬼にならなければ悪に打ち勝つことは出来ないでしょう。戦いというのは準備で決まります。悪との戦いについても同じだと思います。内部に第六天の魔王が出現することは想定内であり、驚くべきことではありません。「まさかあの人が・・」という人が師敵対の人間になることもあり得ます。また、自分自身も魔王の眷属となることもあります。「自分は大丈夫」と思っている人ほど危ない。

悪を断ち切る透徹した祈りを毎日行っていくことが、悪と戦う準備となります。悪を意識することが大事であり、それがない人はいざという時に動揺します。私が教学部レポートをはじめて読んだ時の感想は、「さもありなん」でした。日頃から悪に対しての意識がありましたので、内容に驚くことはなかったです。また、宿坊の掲示板で叩かれている最高幹部たちの悪事を知っても、同様に驚くことも乱れることもありません。
善と悪は紙一重であり、常に隣合わせです。学会内の組織悪も珍しくはありません。悪は日常に潜み、善の中に紛れ込んでいるものです。だからこそ見極めも難しいし、紛然としているのです。

54年の時の多くの職員は、おそらく上の意向に従っただけでしょう。自分の頭で考えることもなく、ただただ最高幹部の方針が正しいと思ってしまったのではないか。その時と、今とでは何が違うというのだろうか。54年を学会の一つの歴史として学んでも意味はなく、その根底には何があるのかを一人ひとりが思索していかなければ、何も変わらない。そういった角度で物事をみられる人がどれだけいるのか。そこに学会の命運がかかっていると思います。

おかしいと思えることに対し、おかしいと表明できるのかどうか。自分の感覚というものを大事にしてほしいと思うのです。変に物分りのよい「イイコ」になってしまうのは危険なのです。回りに流され、思考しない人間になることがどれほどのリスクか。気づかぬうちに裏切りの弟子カテゴリーの中に自分が入ってしまう恐れがある。それが54年の反省であり、後悔だったのではないでしょうか。

一度の過ちは教訓となりますが、同じ過ちを繰り返すのは愚かです。54年を教訓とし、活かしていかなければ意味がない。そのために宿坊の掲示板で議論を深め、思索のきっかけをつくることが大事だと考えます。人はきっかけがなければ考えないし、意識できないからです。これもまた、悪と戦うための準備なのです。