投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月25日(土)10時10分7秒     通報
魔というのは自身の一番弱いところを突いてくる。アキレス腱を狙ってくるものである。治安維持法で逮捕された時に、幹部たちを退転させたのは妻子眷属であり身内である。とくに日本人は「人情」というものに弱いのではないだろうか。内部(身内)の悪との闘争は、まさにこの人情こそが仇となり、足元をすくわれる。

僭聖増上慢や第六天の魔王が一番恐れることは、正体を見破られることである。それを阻止するためなら何でもするのが特徴であり、理不尽なことを涼しい顔をしながら実行する。ずる賢くもあり、人心掌握術にも長けている。悪事を暴き、糾弾しようとする人間に対し、「なにもそこまでしなくても」という空気をつくるのも得意でありましょう。

最高幹部が不祥事を起こしたとしても、「人間だから過ちを犯すこともある」と、許してしまう人も多いでしょう。これ、人情である。しかし、最高幹部というのは信心の模範であるべきであり、会員を指導する立場でもある。船頭であるが故に、舵取りを誤れば会員を不幸にしてしまう。厳しく断罪されなければ、逆に会員を危険にさらし、信心を壊す働きにもなり得るのである。これでは会員が護られないではないか。

悪というのは、人情を巧みに利用します。とくに学会員は優しいし、悪を責めるということ自体が苦手なように思います。何事も穏便に済ませることによって、嫌な思いをさせない、したくない。それが村文化で育った日本人の生きる術であり、智恵だったのでしょう。悪との戦いにおいては、この優しさが邪魔となることがあります。むしろ、悪に加担してしまう結果にもなり得るのです。「自分さえ我慢すれば」という優しい思いは、悪をつけあがらせ、益々やりたい放題の土壌をつくるだけである。黙れば黙るほど、悪は増長すると心得ましょう。

54年の時流には逆らえません発言の根源も、ただただ穏便に済ませたいという保身ではないか。その結果、師を見殺しにしてしまった。宗門と学会との関係は、学会が我慢すれば事態は収まり、宗門は機嫌をなおしてくれる。これ、権威に屈する奴隷のような命である。そのために王(会長)の首は差し出しますと。当時の幹部はそれが学会を守り、会員を守ることだと思っていたのではないだろうか。一応は、組織が混乱することもなければ、会員の信心がおかしくなったこともなかったでしょうが、弟子の裏切りの歴史が刻印された。

組織を守ること(実際はこんなきれいなものではない)を優先し、宗門の悪を責めることをしなかったことが学会の負の歴史となったわけですが、翻って、現代に、師敵対の最高幹部が出現したらどうするのか。会員が動揺するからといって、情報を隠蔽し、なかったものにすればいいのか。それとも事実を明るみにし、糾弾していくのか。本当の意味で、どちらが学会を守ることになるのか。一人ひとりがよくよく考えるべきテーマであり、54年を教訓とし、そこから学んでこそ価値となる。

優しいだけの善人では悪には勝てない。厳密にいうと、それは優しいのではなく、残酷なのである。悪を容認し、善を見殺しにすることは優しくもなんともない。現場レベルでも、会員の声を聴かず、組織の方針や幹部の言動を優先する人はたくさんいる。これもまた残酷である。悪を容認すると、すべては元も子もなくなり、崩壊していく。このことがわからないと、54年は何度も繰りかえされる。

優しさの中に悪は内在する。「悪は断じてゆるさない」という一念が、自身の中にあるのかないのか。その一念こそが、日蓮仏法の魂である。悪と戦える人こそが、真の優しい人であり、本門の池田門下のあるべき姿である。それが創価学会の、人材群なのだ!