投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 5日(金)15時23分30秒  

主人は、こうした我慢偏執を捨て、思想の正邪、善悪を「法」によって検討することを教えられています。しかし、現在の学会組織に仏法があるかないか、その実質を論じてみれば、現場の意見も聞かず、まったく道理が通らず、幹部の悪を指摘すれば反逆者扱い――。

それの一体、どこに仏法があるのか、どこに正義があるのか――。
それは明白ではないかと論じられているのです。
そして、「但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し」(二一頁)――と。

これは組織に巣くう不正をした一般の幹部や、中枢に巣くう一部の悪い首脳幹部の本性をえぐられた言葉です。また、王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し」(同頁)――と。

これは、政治権力者に対して、真正面から切り込み、その愚迷を諫言された言葉です。
この一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、会員のためを思い、ただ一人決然と戦う広宣闘士の勇姿を見る思いがします。

また、もう一つ見逃してはならないことは、客の対話の姿勢です。
「もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」(同頁)――と。

どんなに腹立たしく怒っていても、どこまでも平和的な対話で、相手の主張に耳を傾けるという姿勢です。これが権力をもつ側の指導者の真の姿です。

学会幹部が会員の声に耳を傾け、会員も組織まかせ、幹部まかせにせず、主体者となって協力し、幹部・会員ともに広布の対話をしていくかぎり、人間共和の麗しい異体同心の学会家族の和が、無限に広がっていくと確信します。

それが、池田先生の望まれる「学会は、永遠に人間学会で行く」ということだと思います。

・・・・・・・明日に続く。