2014年12月5日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 5日(金)15時21分43秒 日蓮大聖人の時代から今日にいたるまで、一貫して変わらないことは、人々は宗教を論じるときに、あまりにも形式にとらわれ、宗教家と名がつく者、学会であれば、幹部と名がつく者は皆、善知識だと決めてかかって、宗教・思想の正邪、高低、浅深に、驚くほど無頓着なことです。 これが組織悪を許す根本原因なのです。 しかし、この権威主義、形式主義にとらわれ、実質を見失うのは、人間の弱点でもあります。 かつて、西洋でもキリスト教会の「宗教的ドグマ(教義)」「教会の権威」は、未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を、巨大な圧力で押しつぶし、真実を叫ぶ偉大な知性をも葬り去り、思想の高低、浅深を論ずることを許さず、権威と形式でしばりつけた悪夢の歴史があります。 日本においては、戦時中の神道思想への一国あげての傾注は、愚かしい狂気の沙汰でした。 初代・牧口先生は、正義の思想を守るために、その悪思想の巨大な圧力に殺されたのです。 神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重くのしかかりました。それらの底流を見るときに、権威主義、形式主義は、民衆の生命の奥深くに根ざしていたのです。既成の権威に閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智。そして、自己保身に汲々となり、長いものには巻かれろ的な事なかれ主義。 それらの風潮が、政治面においては、民衆に君臨する巨大な独裁権力を生み、宗教面においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義を横行させ、それによって、民衆の心は、根底よりむしばまれてしまうのです。 もし、自分の所属する幹部の不正を指摘したとき、「創価学会をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとく怒りだすのは、その典型です。自分の既存の知識、自分の既知(すでに知っている)の権威にしがみつき、必死に抵抗しようとする姿は、哀れとしか言いようがありません。 Tweet